足利義政の家系図

 

室町幕府の8代将軍足利義政

応仁の乱を引き起こした人であり、

また他方では文化人として東山文化を発展させた人物です。

幕府を開いた足利尊氏や、栄華を極めた義満とは違い、

政治には不向きな将軍様だったようです。

今回はその足利義政の家系図を歴史を追ってみてみましょう。

 

足利家の家系図

まずは、足利義政の家系図をみていきましょう。

初代、足利尊氏から15代将軍、義昭まで順番にみていきましょう。

家系図

 

足利義政のご先祖様たち

義政のご先祖様で、
室町幕府の代将軍は足利尊氏であることはみなさんご承知のことでしょう。

彼は1338年から1358年に亡くなるまでの20年間将軍として君臨しました。

尊氏の跡を継いだのは正室、赤橋登子の生んだ嫡男、
代目、義詮(よしあきら)でした。

彼は1358年から1367年の間将軍職にありましたが、
突然の病でこの世を去りました。

代目将軍はアニメの一休さんでも有名な足利義満です。

彼は1368年から1394年の間将軍職を務めています。

政治の面明との貿易を行い、
文化的な面では金閣寺などを建て北山文化を発展させた人です。

台頭してくる守護たちを抑え足利幕府の中で1番輝いていた時代とも言えるでしょう。

そんな優れた父の跡を継いだのは足利義持でした。

彼は1394年から1423年まで代目将軍として、
勢力を増してくる守護を抑えるべく機敏に立ち振る舞った名将軍でした。

代目将軍は足利義量(よしかず)でした。

彼の将軍職在位期間は1423年から1425年と短い間でした。

彼は身体が弱くその上大酒飲みだったらしくそれがたたって早世してしまったのです。
19歳でした。

義量には跡継ぎがなかったため、
父親の義持が将軍代行として死去するまで引き受けていました。

義持の死後は彼の弟である足利義教(よしのり)が6代目を継ぎます。
しかし彼は嘉吉の乱で暗殺されてしまいます。

そのため代目はわずか9歳の義教の嫡男、
義勝が継ぎました。

彼も在任期間は短く1442年から1443年とわずか1年間でした。

死因は落馬によるものとされていますが暗殺説もあるようです。

そしてついに8代目将軍として足利義政に将軍の座が巡ってきました。

1449年から1473年までの在職期間中、
応仁の乱を引き起こし京のまちを焼け野原にして、自分は文化的なことに必死になっていた人です。

彼の建てた銀閣寺は東山文化の代表となっています。

 

[関連記事: きっかけは足利義政?!応仁の乱の乱と足利義政についてはこちら。]

 

足利義政以降の系図

義政のあとは応仁の乱で勝利した足利義尚が継ぎ代目となりました。

在職期間は1473年から1489年までで衰退した幕府の力を復活させようとしますが志半ばで病死しました。

10代目将軍には、足利義稙(よしたね)がなりました。

父は義政の弟に当たる足利義視です。

応仁の乱で義尚と争った人ですね。

11代目将軍は足利義稙の養子の足利義澄でした。

1495年から1508年まで在位していましたが、大内義興に追われ近江国へ逃れてそのまま死去しています、

その跡を継いだのは義澄の長男である12代目将軍、足利義晴でした。
彼は1521年から1546年まで在位していました。

足利幕府13代目の将軍は足利義輝です。

1546年から1565年まで在位していましたが三好長慶や松永弾正らと対立し、
自ら剣をとって戦った人です。

最期は自害したとも、殺されたとも言われています。

義輝亡き後、足利義栄(よしひで)が14代目を継ぎますが在職期間はわずか7ヶ月ほどしかありませんでした。
病死でした。

そしていよいよ室町幕府最期の将軍、
足利義昭15代目将軍となります。

在位期間は1568年から1588年まででした。

織田信長に擁されて将軍になったものの、
信長と対立するようになり信長包囲網を築き上げた人物です。

信長が本能寺で敗れたのちは、
豊臣政権下で大名としてその余生を送ったのでした。

 

きょうのまとめ

足利家の歴史をざっとみてきましたがいかがでしたか。

政治で栄えた義満や、文化にしか興味のない義政などいろんな人がいましたね。

足利将軍家は後になるほど守護職におされてしまい、将軍として自由な政治ができなかったようです。

それでも戦った義輝のような将軍もいたのです。

まさに尊氏の血筋だと言えるでしょう。

 

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