小早川隆景はなぜ秀秋を養子として迎えたのか

 

豊臣秀吉と関係が深かった

小早川隆景こばやかわたかかげ

秀吉の後継ぎ候補、秀秋を養子に迎えます。

しかし、小早川隆景が秀秋を養子に迎えたことは、深い意味があったと言われています。

今回は小早川隆景とその養子秀秋についてお伝えします。

 

小早川隆景と養子秀秋

小早川隆景

出典:Wikipedia

豊臣秀吉の養子秀秋が小早川家に入ったその背景はどのようなものだったのでしょうか。

もともと秀秋は豊臣秀吉の正室・高台院の甥にあたり、近江の長浜で誕生します。

秀秋が三歳のとき、秀吉の養子として迎えられます。

しかし秀吉に実子・秀頼が生まれたことにより、養子である秀秋の処遇に困ります。

その背景を知った小早川隆景は、自ら秀秋を養子として迎えるように進言します。

これが小早川家の跡取りとして秀秋が養子となった経緯でした。

秀秋が小早川家に入った理由は、後ろ向きな背景もあったことは事実でした。

歴史を動かした小早川秀秋の寝返り

小早川家の養子として入った小早川秀秋は15歳、1596年に小早川家の家督を相続します。

その後1598年秀吉が亡くなり、1600年小早川秀秋が19歳の時、関ヶ原の戦いとなります。

小早川秀秋は秀吉の元養子でもあり、また毛利家も西軍でもあったことから、1万5千の大軍勢で西軍として参加します。

しかし徳川家康と内通していた小早川秀秋は、なんと戦の最中に東軍に寝返り、結果東軍勝利となります。

なぜ、小早川秀秋は東軍に寝返ったのでしょうか。

関ヶ原の戦いは、戦力がほぼ五分五分で全く勝負の行方は分からない状況でした。

小早川秀秋が寝返らなければ西軍が勝ったとまで言われています。

秀吉の元養子でもあり、また毛利家を支える小早川家が西軍を裏切ることはあり得ないことでした。

その後、小早川秀秋は関ヶ原の戦いの論功行賞により、徳川家康より加増、岡山藩55万石を与えられます。

しかし西軍を裏切ったことが背景からか、長年家老を勤めてきた重臣・稲葉正成が行方不明となります。

小早川秀秋は酒を煽り、1602年関ヶ原の戦いの2年後に病死し、小早川家は断絶することとなりました。

あまりにも悲運な最期でした。

 

小早川隆景が秀秋を養子にした本当の理由

豊臣秀吉と小早川隆景とは非常に関係性は良好でした。

しかし、小早川隆景の本家である毛利家は、豊臣秀吉と距離を置いていたことも事実でした。

豊臣秀吉は毛利家自体を手中に収めるべく、様々な手を考えていました。

そのうちの一つとして秀秋を毛利家に養子に出したいと考えていたと言われています。

小早川隆景はその意向をすぐに察知し、小早川家として秀秋を養子にしたいと進言したのが真相だと言われています。

先見性のある小早川隆景が、秀秋の能力が幾ばくかは理解していたとも考えられます。

小早川隆景は「本家毛利家を秀秋が継いだのでは毛利家の先が無い」と考えた可能性もあると言われています。

つまり豊臣家から粗末に扱われた秀秋は、毛利家にも入れず、小早川家に入れられたと後ろ向きな思考になった可能性もあります。

関ヶ原の戦いでの歴史的寝返りは、小早川秀秋の冷静な戦力判断なのか、逆恨みが生み出した結果なのか、真相は闇の中です。

いずれにしても、関ヶ原の戦いの2年後には、家臣の裏切りなど悲運な最後を迎えてしまった小早川秀秋。

先見性のある小早川隆景は、その歴史的結果を予想していた可能性もあるのではないでしょうか。

 

きょうのまとめ

小早川隆景と秀秋について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

小早川隆景と秀秋については、

① 豊臣家で処遇に困った秀秋を小早川家の跡取りとして養子に迎える

② 本家である毛利家を守るため引き取った?

③ 結果的には毛利家は守られた

と言えるのではないでしょうか。

小早川隆景については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。
 

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