小早川隆景の城について

 

「 三本の矢 」の教えで有名な毛利元就の三男、小早川隆景は様々な城を築城しました。

強力な水軍を抱え、瀬戸内海に海城も作っています。

今回は小早川隆景と城についてお伝えします。

小早川隆景と城の関係

1533年、隆景は毛利元就の三男として安芸・「 吉田郡山城 」で生まれます。

吉田郡山城は広島県安芸高田市吉田町にあった城で、安芸国の戦国大名毛利氏の居城でした。

毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としており、

城跡は「 毛利氏城跡 郡山城跡 」として国の史跡に指定されています。

1540年~1541年の吉田郡山城の戦いでは、

当時毛利氏と尼子氏との戦での舞台としても有名です。

1541年、隆景は小早川家の養子となり、小早川家の居城、「 高山城 」に入ります。

高山城は現在の広島県三原市本郷町にあった城で、

鎌倉・室町時代を通じて沼田小早川氏が本拠地とした城です。

現在、城跡は国の史跡に指定されています。

1552年、小早川隆景は小早川家の本拠を高山城から沼田川を挟んだ対岸に新高山城に移します。

そのため高山城は廃城となっています。

新高山城は現在、続日本100名城(173番)に選定されています。

1567年、小早川隆景は「 強力な水軍 」を背景に、

瀬戸内海の交易路として三原の湾内に浮かぶ大島、小島をつなぐ「 三原城 」を築きます。

豊臣秀吉との攻防、備中高松城の戦いから帰還してすぐに築城に着手しました。

新高山城の、石垣などをリサイクル活用し築城されたといわれています。

別名「 浮城 」(うきしろ)とも呼ばれ、

豊臣秀吉も褒め称え、非常に美しい城としても有名でした。

1596年、小早川隆景は三原城で隠居し、その翌年1597年三原城内で死去しています。

強力水軍を率いた「 三原城 」!

当時世界最大の海賊だと言われている「 村上水軍 」とも連携しながら、瀬戸内海を支配した三原城。

強力な水軍を誇る小早川隆景が築城し、最後に行き着いた城が三原城です。

沼田川河口の三原湾に浮かぶ小島や中洲などを石垣でつないで築かれました。

規模は東西約900m、南北約700mの大きさを誇りました。

背後の桜山と前方の海など天然の要害で守られる、

いわゆる梯郭式(ていかくしき)の平城でした。

梯郭式: 本丸を城郭の片隅に配置し、周囲の2方向や3方向を他の曲輪(くるわ)で囲む設計
曲輪: 一定の広さをもつ石垣、堀などで区画した区域の名称、郭ともかく

三原城は海に向かって船入りを開き、城郭と軍港としての機能を備えた名城です。

満潮時にはあたかも海に浮かんだように見えたので「 浮城 」と呼ばれていました。

石垣は珍しい「 あぶり積み 」という古代の石積工法で、表面の面積が奥行きの面積よりも大きい石の積み方です。

強度は低いが、凸凹が美しいと言われている工法です。

築城以来、一度も攻撃を受けることがなかった三原城は、小早川氏以降、福島氏、浅野氏の支城として栄えました。

現在の三原城

現在は石垣と塀の一部、そして天守台跡が残っているのみで、原型はとどめていません。

山陽鉄道三原駅建設の際に、城地は駅用地に使用され、石垣も大部分が撤去されました。

現在はJR三原駅内にあり、三原城跡は国の史跡に指定されています。

本丸跡はJRの線路が貫き寸断されているものの、三原駅の2階から天守台跡を見ることができます。

三原駅の南側には船入り櫓(やぐら)跡があり、海城としての様子がうかがわれます。

現在では、天主台跡を囲む堀の周囲の景観を保存し、公園化する工事が進められています。

きょうのまとめ

小早川隆景の城について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

小早川隆景の城について簡単にまとめると、

①旧来からの小早川家の城は高山城

②小早川隆景は新高山城を築城

③さらに小早川隆景は三原城を築城

④三原城は強力水軍を率いる海城

⑤現在三原城跡はJR三原駅

と言えるのではないでしょうか。

小早川隆景については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

nineteen − nine =