小早川隆景の家紋、「左三つ巴」について

「 三本の矢 」で有名な毛利家の三男、小早川隆景。

次男の吉川元春とともに本家毛利家を名実ともに支え続けます。

天下人豊臣秀吉の五大老の一人までのぼりつめます。

今回は小早川家の発祥や小早川隆景の家紋についてお伝えします。

小早川家の発祥から断絶まで

小早川家は、源頼朝に仕えた鎌倉時代の武将・土肥実平(どひさねひら/桓武平氏の一族)に始まります。

土肥氏は相模国土肥郷から発祥した家柄で、土肥実平は源頼朝の挙兵以来の重臣でした。

土肥実平は平氏追討で功を立て沼田庄(広島県三原市)の地頭として移り住みます。

土肥実平の子・遠平(とおひら)から小早川姓を名乗っています。

その子孫、土肥茂平は竹原庄(広島県竹原市)の地頭職も与えられます。

このことで、本家の沼田小早川家、分家は竹原小早川家として分かれます。

いずれも水軍が優れていたのが特徴ですが、中国地方でも権力を広げます。

応仁の乱のときは敵味方に別れて戦ったこともありました。

大きく動いたのは1543年。

竹原小早川氏の当主興景が病死し、その隙を狙い、毛利元就が三男隆景を養子に据えます。

本家の沼田小早川家、分家竹原小早川家を統合し、実質毛利家の家臣一族として吸収します。

その後、豊臣秀吉が政権を握ります。

小早川隆景は秀吉の養子秀秋を後継ぎとした代わりに、秀吉の五大老に加わります。

しかし、この後継ぎ当時19歳の小早川秀秋が歴史を動かします。

小早川秀秋は1600年の関ヶ原の戦いで西軍側を裏切り、東軍徳川家康に寝返ります。

徳川勝利に貢献したことで、備前岡山47万石の領地を得ます。

しかし、2年後に病死し、後継ぎがなかったことから小早川家が断絶することとなりました。

小早川隆景の家紋は「 左三つ巴 」

この「 左三つ巴 」は小山、足利、佐野、結城など藤原秀郷流が好んで用いていました。

小早川隆景以外に九鬼嘉隆(くき よしたか)、蒲生氏郷(がもう うじさと)、福島正則、山本勘助が用いています。

明治維新の時代に活躍した土方歳三も、藤原氏の流れをくみ「 左三つ巴 」を用いています。

巴(ともえ)の意味

巴がなぜ渦巻のような形をしているのか、由来は定かではありません。

説は複数ありますが大きく分けて4つの説があります。

弓をいる時の鞆(とも)説

鞆(とも)は、弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕や釧に当たるのを防ぐ道具です。

この道具の形が由来という説です。

勾玉(まがたま)説

勾玉(まがたま)は先史・古代の日本における装身具の一つで、祭祀にも用いられたものです。

この勾玉の形が由来とも言われています。

渦巻く水説

水が渦巻く様子に似ていることが由来という説です。

この説から平安末期の建物に軒丸瓦(のきまるがわら)などに火災除けとして使われています。

軒丸瓦: 軒先に用いる丸瓦。蓮花紋や巴紋 (ともえもん) をつけることが多い。

また太鼓などにも描かれています。

蛇説

とぐろを巻く蛇の様子をかたどっているという説もあります。

昔から蛇は「 神の使い 」として崇められていました。

このことからへびが由来という説もあります。

巴は八幡神の神文としても用いられ、神霊の印とも言いい、武家ではよく使われる家紋となりました。

1つの巴の一つ巴(ひとつどもえ)、2つの巴の二つ巴(ふたつどもえ)、4つの巴の四つ巴(よつどもえ)などもあります。

きょうのまとめ

小早川隆景の家紋について見てきましたが、いかがでしたでしょうか

小早川隆景の家紋については、

①小早川家の発祥は鎌倉時代までさかのぼる

②毛利家の三男隆景が小早川家を継ぎ、本家毛利家を支える

③小早川隆景の家紋は「 左三つ巴 」

④「 左三つ巴 」は福島正則、山本勘助など多くの武家で用いられていた

⑤「 巴 」の由来は各説あり、詳細は不明

と言えるのではないでしょうか。

小早川隆景については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。










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