永禄5年(1562年)に尾張国の刀鍛冶 加藤清忠の次男として生まれた
加藤清正。
母親が豊臣秀吉の生母・大政所の親戚だったこともあり、
幼少期から秀吉の小姓として使えていました。
秀吉からも親戚筋としてとても可愛がられたそうです。
そんな加藤清正とはどのようなひとだったのでしょうか。
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加藤清正とはどんな人?
- 出身地:尾張国愛知郡(現在の愛知県名古屋市)
- 生年月日:1562年7月25日
- 死亡年月日:1611年8月2日(享年 50歳)
- 賤が岳の7本槍の1人と言われた勇猛果敢な武将
加藤清正 年表
1562年(1歳)尾張国に生まれる。(幼名、虎之助)
1573年(12歳)羽柴秀吉の小姓となり仕えるようになる。
1583年(22歳)賤が岳の戦いで武功を挙げる。
1588年(27歳)肥後国(熊本県)の領主となる。
1592年(31歳)朝鮮出兵(文禄の役)で朝鮮で活躍するも、石田三成と対立し帰国後は蟄居となる。
1596年(35歳)伏見大地震の時、配下の者300人ほどで秀吉の元に駆けつけたことにより蟄居が許される。
1597年(36歳)第二次朝鮮出兵(慶長の役)に出陣する。
1598年(37歳)豊臣秀吉が死去し朝鮮から戻る。
1600年(39歳)関ヶ原の戦いでは黒田如水とともに九州において毛利氏を牽制する。
1606年(45歳)隈本城から熊本城へ改名する。
1611年(50歳)徳川秀吉と豊臣秀頼の仲裁役として二条城での対面をさせる。
その帰国の途で発病し、熊本城にて死去。
賤ヶ岳の7本槍とは
織田信長が京都の本能寺にて配下の武将・明智光秀の謀反により横死。
その明智光秀を山崎の戦いで討ち取った豊臣秀吉が、旧信長家臣団の中で大きな影響力を持つようになりました。
1582年7月16日、織田家の後継者を決めるために清洲城で会議(清洲会議)が行われます。
信長の三男である信孝を推す柴田勝家と信長の嫡男信忠の子である三法師(織田信秀)を推す豊臣秀吉の間で対立が生じました。
翌年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で両軍が激突することになりました。
これが「賤が岳の戦い」です。
この戦により勝家は敗戦し居城である北ノ庄城へ逃れましたが、前田利家を先方とする秀吉軍に包囲され、翌日に夫人のお市の方とともに自害して果てたのでした。
この賤ヶ岳の戦いで秀吉側で功名をあげた7人がのちに
「賤ヶ岳の7本槍」と呼ばれ、その中に加藤清正も名を連ねていたのです。
7本槍の他のメンバーは、
・片桐且元
・平野長泰
・福島正則
・糟屋武則
・加藤嘉明
です。
しかし実際は
・石川一光
・石田三成
・大谷吉継
・一柳直盛
などもこの戦いで秀吉から数千石の褒美をもらっています。
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加藤清正にまつわるエピソードや伝説
清正の少年時代
加藤清正には、子供の頃から、森本一久と飯田直景という親友がいました。
ある日3人の中で剣の腕が一番強いものが主君となり、負けた2人は家臣となる約束をし果し合いをしました。
その時加藤清正が勝利したので、
約束通り2人は生涯をかけて清正の両腕と言われるほどの信頼を持った家臣となったのです。
またある日叔父の家にいたところ盗賊が入り、
叔父夫婦は縛られましたが、清正は鬼の面を被りつづらに隠れました。
そのつづらに宝があると思った盗賊は持ち去ることにしました。
途中でそのつづらの中のお宝をのぞいてみようとした盗賊がつづらを開けたところ、
中から鬼の面をつけた清正が飛び出てきたため、盗賊たちは鬼が出たと勘違いし逃げ去ったということです。
少年の頃から勇気があり機知に優れた清正だったのです。
朝鮮飴の由来
加藤清正が朝鮮へ出兵していた時、
もち米や水飴、砂糖を原料とした長生飴というものを非常食として利用していました。
その技法が帰国後も利用され、
長生飴から朝鮮飴として名前を変えて今でも熊本の銘菓となっているのです。
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きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。加藤清正についていかがでしたでしょうか。
加藤清正とは?
① 賤が岳の7本槍のひとりだった
② 清正は少年時代から強く、賢明だった
③ 熊本の銘菓の朝鮮飴を最初に作った
その他の記事についても加藤清正にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞ御覧ください。
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年表の「尾張国に生まれる。」(一番上)のところが「1162年」になっています。
「1562年」ではないのでしょうか?
(私は問題ありませんが)
ご指摘誠にありがとうございます!
大変助かります。
該当箇所につきまして、修正させて頂きました。