上杉景勝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

越後の虎と言われた上杉謙信のあとを継ぎ、初代の米沢藩主となったのが

上杉景勝です。

上杉謙信の死後、

その跡目を巡って北条家から養子として来ていた上杉景虎と「御館の乱おたてのらん」で争い勝利を収めました。

家臣の前では笑うことのなかったと言われている上杉景勝という人物について調べてみましょう。

 

上杉景勝はどんな人?

プロフィール
上杉景勝

出典:Wikipedia

  • 出身地:越後国魚沼郡上田庄(現在の新潟県魚沼市)
  • 生年月日:1555年1月8日
  • 死亡年月日:1623年4月19日(享年69歳)
  • 初代米沢藩当主

 

上杉景勝 年表

年表

西暦(年齢)

1555年(1歳)越後国に生まれる。(幼名、卯松)

1560年(6歳)上杉謙信の小姓になる。

1564年(10歳)父の長尾政景が死去したことにより、謙信の養子となる。

1578年(24歳)上杉謙信が急死する。家督を巡り上杉景虎と対立し勝利。

1579年(25歳)武田勝頼の異母妹 菊姫と結婚。

1586年(32歳)豊臣秀吉の臣下となる。

1597年(43歳)小早川隆景の死去により、五大老のひとりに入る。

1598年(44歳)秀吉が死去し、徳川家康と対立する。

1600年(46歳)関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したため降伏し米沢30万石に減封される。

1623年(69歳)米沢城で死去。

 

重臣・直江兼続が石田三成と懇意であったため家康と対立する

上杉景勝は、秀吉の死後、勝手な振る舞いのみられた徳川家康に対して不満がありました。

家康が上洛を求めても、重臣である直江兼続が「直江状」と言われている書面で家康に喧嘩をふっかけています。

このため家康は上杉家に謀反ありという名目で、上杉景勝を倒そうとしたのが会津征伐と呼ばれる戦いです。

この時家康を背後から襲いかかったのが石田三成でした。

これが関ヶ原の戦いです。

残念なことにこの戦いは多くの裏切りにあい、石田三成率いる西軍は数時間という短い間に敗北してしまいます。

上杉家は家名断絶は免れたものの、所領を削られた上に米沢に国替えとなったのです。

あの関ヶ原の戦いは上杉家が火付け役になって始まったんですね。

 

関連記事 >>>> 「上杉景勝と直江兼続2人の関係は?」

関連記事 >>>> 「西軍上杉景勝と関ヶ原の戦いはどのような経緯で起こったのか」

 

上杉景勝にまつわるエピソードや伝説

寡黙で厳格な性格の持ち主

上杉景勝は感情を表に出すことがほとんどありませんでした。

上杉の兵は行軍中も無駄口を叩くものもなく、人馬の歩く音しかしなかったそうです。

日頃から臣下の者に厳しくしつけていたからでしょう。

そんな景勝は飼っていた猿が自分のモノマネをしているのを見て、その可愛らしさに思わず笑顔になったと言います。

家臣の前で笑ったのがこれ一度と言いますから、よほど猿が愛おしく思えたのでしょう。

妻や子供の前では優しい父親であったと思いたいですね。

前田慶次も一目置いていた

傾奇者で有名な前田慶次は、酒の席でいつものようにふざけていました。

出席している人たちの膝に座り猿真似などしていましたが、上杉景勝の膝に座ることをしませんでした。

後に慶次は

景勝は威風凛然いふうりんぜんとしていてどうしても座ることができなかった

と言っています。

殿を堂々と務める勇ましい慶次も景勝の前ではおとなしかったようですね。

 

関連記事 >>>> 「上杉景勝を支えた3人の家臣たち」

 

キリスト教に寛容であった

幕府がキリスト教を弾圧しはじめても、景勝は自分の領内にはキリシタンは1人もいないと言い、領内のキリスト教信者を守ったと言われています。

景勝は信者ではありませんでしたが、家臣の中にキリシタンがおりその家臣たちを守りたかったためだと思われます。

無愛想でも、内面は義に厚い人だったのでしょう。

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

上杉景勝についていかがでしたでしょうか。

上杉景勝とは?

① 関ヶ原戦いのきっかけを作った人

② 寡黙で冷静な藩主

③ 前田慶次も逆らえない人

④ キリシタンに寛容な人

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても上杉景勝にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

eleven − 11 =