加藤清正の虎退治は本当?!

 

永禄5年(1562年)に尾張国に生まれた加藤清正は、

母親が豊臣秀吉の生母・大政所の親戚だったこともあり、幼少期から秀吉の小姓として使えていました。

秀吉からも親戚筋としてとても可愛がられたそうです。

そんな清正が脚光をあびたのが、賤ヶ岳の戦いです。

秀吉側で功名をあげた7人はのちに「 賤ヶ岳の7本槍 」と呼ばれ、その中に加藤清正も名を連ねていました。

その加藤清正が虎退治をしたという話をよく耳にします。

果たして本当に清正は虎退治をしたのでしょうか。

その経緯をみてみましょう。

 

きっかけは朝鮮出兵

1592年、ほとんど天下統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮半島へと兵を送りました。

これを文永の役、慶長の役と言います。

文永の役で加藤清正は2番隊の主将として鍋島直茂、相良頼房などを配下に置き、

同じく先方を率いる小西行長の率いる1番隊とは別のルートで侵攻していきました。

釜山上陸後、小西行長と首都漢城攻略を競い、漢城攻略後は、

清正は秀吉の本意は明攻略がであると考え、1番隊と3番隊とは別ルートで明を目指し北上したのです。

 

虎との戦い

この頃朝鮮にはアムール虎やシベリヤ虎が数多く生息していました。

明・朝鮮との戦闘が長期化し、その戦闘で死亡した兵士たちに虎が群がるようになり、

清正軍の陣地にも虎が出没するようになりました。

その上、馬を食べたり家臣を殺したりと被害がで始めたため、怒った清正は山狩りを実施します。

その時に1頭の虎を発見すると虎の喉元に槍をひと突きして仕留めました。

仕留めた虎の肉を健康のためと、秀吉の元に塩漬けにして送りそれを秀吉は食したと言われています。

しかし、実際は槍で突き殺した訳ではなく、鉄砲で仕留めていたようです。

槍の名手として有名な清正ですが、鉄砲もかなりの腕前でした。

加藤清正が槍で虎を退治する絵が多くみられますが、

獰猛な虎に近づいて槍で突き殺したりするような危険な行為は行なっていなかったようです。

実際は鉄砲で仕留めていたものを、槍の名手であったことでより勇猛な構図になるように槍で突き殺したと脚色されたようです。

 

清正以外の大名も虎狩りをしていた

この当時、朝鮮に出兵した大名たちはそれぞれ虎狩りを行なっていたようです。

その中に黒田長政もいました。

長政は、家臣が危ないと止めるほど虎に至近距離まで近づいて、鉄砲で見事に仕留めたそうです。

黒田長政の家臣の菅六之助は「 黒田24騎 」と言われるほどの武将でしたが、

彼も長政とともに虎退治をしています。

菅六之助は刀で虎を退治したそうです。

この時の刀は長さが約70cmもある備前吉次の作った名刀でした。

皮や肉が秀吉のお気に入りだとして、他の大名やその家臣が競うように虎狩りを行なってはその皮や肉を秀吉に送ったそうです。

これには秀吉自身も困ってしまい「 送らないように 」と命令が出てしまうほどでした。

まとめ

加藤清正の虎退治は本当にあった話でした。

意外なことは、清正以外の大名たちも虎退治をしていたことです。

最初は珍しくて送られてくるのが楽しみだった秀吉も、もう虎はこりごりだと言ったようです。

 

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