三本の矢の教えで有名な毛利元就の三男、
小早川隆景。
豊臣秀吉の五大老の一人にまで成り上がったことでも有名です。
しかし、絶頂の最中、その子小早川秀秋が小早川家の存続を左右してしまいます。
今回は小早川隆景の子孫についてみていきましょう。
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小早川隆景の家族、子どもについて
小早川隆景の家族、子どもについてみてみましょう。
父は毛利元就
実父は一代で「中国地方8ヶ国を支配する大名にまでのし上った」毛利元就、実母は正室で、吉川国経の娘の妙玖夫人です。
隆景は元就の中国地方統一の戦略により、竹原小早川氏の養子となります。
第13代当主、小早川興景が隆景の養父となり、実質小早川家の実権を握ります。
兄弟は養子含めて8人いて、主な人物は下記のとおりです。
・吉川元春(次男/吉川家の家督を継いだ)
・早川隆景(三男)
3兄弟は父の言い付け通り、最終的にも結束は固かったことも知られています。
小早川隆景に子どもはいたのか?
小早川隆景の妻は、問田大方(小早川正、沼田小早川家当主の娘)であり、側室は置きませんでした。
小早川隆景は実子がおらず、二人を養子として迎え、一人は関ヶ原の戦いでも有名な小早川秀秋です。
豊臣秀吉の義理の甥(秀吉との血筋はない)で、近江国の長浜出身、木下家定の五男です。
そしてもう一人は毛利秀包(毛利元就の九男)です。
実子がいなかったため、小早川家の家督は小早川秀秋が継ぐことになります。
小早川秀秋以降の小早川家
小早川秀秋が小早川家を終わらせた?
小早川秀秋は秀吉の後継ぎ候補として、秀吉の正室である「ねね」の元で養育を受けてきた秀吉の養子です。
小早川隆景が豊臣秀吉に気に入られ、秀吉の「五大老」の一人に任命されると小早川隆景の養子となります。
秀吉の養子でもある小早川秀秋は1596年15歳の時に小早川家の家督を相続し、1598年17歳の時、秀吉が亡くなります。
1600年小早川秀秋が19歳の時、「徳川家康の東軍」、「旧秀吉側石田三成の西軍」とに分かれ関ヶ原の戦いとなります。
小早川秀秋は秀吉の養子でもあり、1万5千の大軍勢で西軍として参加します。
しかし徳川家康と内通しており、戦の最中に寝返り一気に態勢を決める動きとなり、西軍勝利となります。
関ヶ原の戦いの後の論功行賞により、徳川家康より加増、岡山藩55万石を与えられます。
しかし、長年家老を勤めてきた重臣、稲葉正成が逃げだして行方をくらまし、ショックを受けます。
もともと気の弱かったこともあり、酒を煽り1602年、関ヶ原の戦いの2年後に病死します。
小早川家は後継がいないとの理由で改易処分になりました。
秀吉の五大老にまでのぼりつめた小早川家は小早川秀秋が最後となりました。
小早川隆景の毛利家への深い愛
三本の矢の教えはフィクションであると言われていますが、小早川隆景の毛利家への想いは深かったようです。
実は豊臣秀吉が養子の秀秋を養子として家督相続させたかったのは、「毛利家」でした。
当時、毛利家当主、毛利輝元には跡取りはいませんでした。
小早川隆景は毛利家の「本家を守る」ため、秀秋が養子とならないよう工作し、秀秋を「小早川家」の養子に迎え入れました。
結果的には秀秋が病死することにより、小早川家がつぶれてしまうこととなったことからも先見の明が伺えます。
小早川家の再興?!
一旦、小早川家は小早川秀秋を最後に姿を消してしまいました。
しかし明治時代になって、毛利本家からの願い出により、小早川氏には再興の勅命が下ります。
公爵毛利元徳の三男、三郎を養子に迎え(その後四男の四郎が相続)、小早川家は再興。
小早川家は男爵の爵位を授けられます。
現在、モータージャーナリストとして活躍している小早川隆治氏は再興された小早川家の子孫です。
きょうのまとめ
小早川隆景の子孫について見てきましたが、いかがでしたでしょうか
小早川隆景の子孫については、
② 秀吉の意向から養子に秀秋を迎える
③ 小早川秀秋が関ヶ原の戦いで寝返りにより東軍勝利となる
④ 小早川秀秋が若くして病死し小早川家が終わる
⑤ 明治時代、毛利家の申し出により小早川が再興
と言えるのではないでしょうか。
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