大友宗麟が築いた海に浮かぶ城

 

有名なので知っている方も多いと思いますが、

大友宗麟(おおともそうりん)は、

九州地方で活躍した戦国大名です。

宗麟は有名ですが、宗麟が築いた城についてはあまり知られていないのではないでしょうか?

今回は宗麟が築いた臼杵城(うすきじょう)にスポットを当ててみたいと思います。

 

宗麟が築いた臼杵城

大友宗麟が築いた臼杵城についてご紹介します。

海に浮かぶ城

臼杵城は、大友宗麟によって大分県の臼杵湾に浮かぶ丹生島(にゅうじま)という島に築かれた城です。

宗麟の頃には丹生島城(にゅうじまじょう)と呼ばれ、大友氏の本拠地となりました。

島全体が城の縄張りとなっているので、島の面積がそのまま城の面積となります。

北・南・東の城の三方を海に囲まれ、西側が干潮時のみ干潟によって

陸地とつながる、難攻不落の天然の要塞です。

つまり満潮時には、陸からは行くことの出来ない「 海に浮かぶ城 」になるわけです。

本丸は唯一陸とつながる西側から一番遠い、東の海側に置かれ、

深さ8m幅12mもの空堀で二の丸と区別されていました。

万が一、敵に侵入された時のことも考えられた、まさに鉄壁の城砦だったのです。

残念ながら現在は城の周りは埋め立てられ、「 海に浮かぶ城 」の面影はありません。

大砲で武装されていた

この臼杵城の凄いところは、鉄壁の守りだけではありません。

宗麟はキリシタン大名であることを活かし、ポルトガルなどと積極的に貿易を行っていたので、

鉄砲や大砲などと言った最新の兵器をいち早く導入することが出来ました。

なかでも臼杵城に配置されていた大砲は、その威力から「国崩し」と呼ばれていました。

攻め入ることも難しい鉄壁の城に、国も崩すほどの威力の大砲まで装備されていては、

当時の武将も臼杵城に攻め入ろう、という気持ちにはならなかったでしょう。

島津軍が侵攻してきた、丹生島城の戦いでは実際にこの国崩しが使われました。

大砲は敵陣に命中し、島津軍は大損害を受け、多数の死者が出たと記録に残っています。

国崩しは、日本で初めて実戦で使用された大砲でもあります。

臼杵城の見所

3重4階の天守と31基の櫓(やぐら)があり、当時としても大規模な城郭だったことが

分かっていますが、現在は公園として整備され、石垣とわずかな建物が残るのみです。

二の丸跡の南西隅にある「 畳櫓(たたみやぐら) 」と本丸跡の南東隅にある「 卯寅口門脇櫓(うとのぐちもんわきやぐら) 」が

唯一現存する建物で、当時の様子を偲ぶことが出来ます。

石垣と空堀もほぼ当時の様子を残しており、臼杵城の大きな見所のひとつとなっています。

二の丸の正面に当たる「 大門櫓 」は2001年に復元されました。

また二の丸跡には「 国崩し 」のレプリカが設置されています。

国崩し: 本最初の大砲とされる。古くには「 石火矢 」と呼ばれたものを大友宗麟が「 国崩し 」と命名したともいう

臼杵城が当時の姿のまま残っていたら、東洋のモンサンミッシェルになっていたかもしれません。

 

まとめ

大友宗麟が築いた臼杵城についてまとめてみましたが、いかがでしたか?

満潮時には島になる、鉄壁の守りを誇る臼杵城。

海に浮かぶその姿、見てみたかったですね。

 

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