「敵に塩を送る」という言葉、
一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?
この言葉は、武田信玄が困窮していた際にとった、上杉謙信の行動が元になっています。
果たして、武田信玄は何に困窮していたのでしょうか……
そして、上杉謙信が取った行動とはどういうものだったのでしょうか?
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三国同盟の破棄
武田信玄は、駿河の今川氏と相模の北条氏と婚姻関係による同盟を結び、
越後国の上杉謙信と対決していたことは有名です。
しかし、この情勢も徐々に変化していきます。
上杉謙信との数度にわたる川中島の戦いで、
両者間の戦いが収束します。
一方で
「今川義元が織田信長に討ち取られる」という激変が起きるのです。
今川氏が嫡男の氏真に当主交代がなされると、
駿河の国は明らかに動揺し始めます。
武田信玄の嫡男である義信の正室は、今川氏真の妹でしたが、
義信が謀反を企てていることが露見し、
廃嫡されるという事件が起きると、
武田・今川間の同盟関係も弱体化していきます。
信玄は、織田信長との関係を婚姻によって強化していくことになります。
このような情勢の変化の中、
武田信玄は今川との関係を破棄して、駿河侵攻を決めるのです。
今川・北条による塩留め
同盟関係が崩れ、領内に攻め込まれた今川氏真は、縁戚関係にある北条氏康に協力を仰ぎます。
そして武田領内への塩の運搬を封鎖するように持ち掛けます。
武田信玄の領土は、現在の山梨県と長野県にあたる、
甲斐・信濃だったため、海に面していませんでした。
そのため沿岸部で塩田を開き、塩を精製することができません。
塩の運搬を止められてしまうということは、
領民にとっては死活問題といえます。
この武田氏の苦境を知った時、上杉謙信はどのように行動したのでしょう……
信越をつなぐ塩の道
同盟関係を破棄し、自領に攻め込まれた今川氏にとって、
経済封鎖ともいえる塩留めは、当然の応酬ともいえます。
今川氏と縁戚関係を結んでいた北条氏の反応も、納得がいくものです。
それでは長年信玄と戦いを繰り返してきた好敵手、上杉謙信はどうだったでしょう。
この信玄の苦境にもし上杉謙信も塩の運搬を封鎖したら、
武田氏は内側から崩壊したかもしれません。
しかしながら、謙信はそうはしませんでした。
しかも、塩の運搬を留めるどころか、
越後と甲斐で取引される「塩の値が高騰しないように配慮もした」といわれています。
こうして、糸魚川から松本をつなぐ信越の塩の道は、
途絶えることなく続くことになるのです。
義に厚い上杉謙信の人となりをよく表しているエピソードともいえるのではないでしょうか。
きょうのまとめ
武田信玄と塩の運搬をめぐる戦国大名の関係を最後にまとめてみましょう。
① 信玄は三国同盟を破棄し駿河に攻め込み、今川・北条両氏から「塩」の運搬を留められる
② 上杉謙信は塩の運搬を留めず、便宜を図った
武田信玄の死を知らされた上杉謙信は、好敵手の死を悼んだといわれています。
「敵に塩を送る」というエピソードは、
そのような2人の関係に根差して、後世の人が粉飾した可能性が高いです。
実際のところは、困っている武田信玄に塩を送ったというものではなく、
生活必需品の塩がなくなり、人々が苦しむのを見るのは、自分の心情に反していたから、
塩の運搬を留めなかったというのが本当のところでしょう。
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