鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の嫡男として誕生し、前途を嘱望された
源頼家の生涯は短く、その最期は悲惨でした。
頼家とはどんな人生を歩んだ人物だったのでしょうか。
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源頼家はどんな人?
- 出身地:相模国鎌倉比企ヶ谷(現神奈川県鎌倉市鎌倉地域大町)
- 生年月日:1182年8月12日
- 死亡年月日:1204年7月18日(享年23歳)
- 父・源頼朝の死後に鎌倉幕府第2代将軍となるが、弟の源実朝を将軍にしようとする北条氏の謀略によって幽閉され、若くして凄惨な死を遂げた
源頼家年表
西暦(年齢)
1182年(1歳)父・源頼朝、母・北条政子のもとに誕生
1195年(14歳)京に上洛し、幕府後継者としてお披露目される
1197年(16歳)従五位上右近衛権少将に叙される
1199年(18歳)父頼朝の死に伴い第2代鎌倉殿となる。十三人の合議制が敷かれる
1200年(19歳)頼家の側近・梶原景時と一族が討たれる(梶原景時の変)
1202年(21歳)鎌倉幕府第2代征夷大将軍となる
1203年(22歳)頼家の乳母一族・比企氏が滅亡(比企能員の変)
1204年(23歳)伊豆国修禅寺に幽閉ののち、暗殺される
源頼家の生涯
鎌倉幕府を創設した源頼朝の嫡男として誕生した源頼家の生涯を見ていきましょう。
誕生から家督相続
1182年、源頼家は源頼朝と北条政子の長男として誕生しました。
幼名は万寿(または十幡)。
後継者として待ち望まれた男子の誕生でした。
頼家の乳母父は、頼朝の乳母だった比企尼の甥で養子となった比企能員が選ばれました。
頼家は武芸に優れた青年として成長。
1196年には、両親と妹・大姫と共に上洛して頼朝の後継者としてお披露目されるなどその前途は明るかったのです。
1199年に父親の頼朝が急死すると、18歳の頼家は家督を相続し、第2代の鎌倉殿となりました。
しかし、3ヶ月後に北条氏ら御家人による「十三人の合議制」が敷かれ、頼家は直接自分で訴訟を裁断できなくなりました。
鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』によると、頼家による独裁的で横暴な政治が理由だとされていますが、たった3ヶ月後では、正当に評価されていない可能性があります。
当然頼家はこれに反発し、特に側近であり乳母父一族であった比企氏など一部の者だけを極端に厚遇。
彼の外祖父・北条時政をはじめとする他の御家人たちは頼家に対する不満を募らせました。
頼家が頼った御家人たちの滅亡
梶原景時は対立しがちな源頼家と御家人との間に立ち、頼家を支えていた辣腕の側近の1人でした。
頼家を差し置いて彼の弟・千幡(のちの源実朝)を将軍にしようとする陰謀を知った時にも、景時はそれを頼家に報告しています。
ところが、三浦義村、和田義盛らを中心とする御家人66名が景時排斥を求める連判状を頼家に提出。
さすがに頼家も景時を救うことができず、失脚した景時は鎌倉を去り、1200年に一族もろとも滅亡しています。
1202年になると頼家は従二位に叙され、征夷大将軍となりましたが、翌年病に倒れ8月には一時危篤状態となりました。
すると北条時政は頼家が存命であるにもかかわらず、頼家に無断で遺産相続の話を進め、
28国を引き継ぎ治める地頭
・源実朝(頼家の弟)
38国を引き継ぎ治める地頭
としたのです。
頼家の家督全てを継ぐのは息子の一幡だと考えていた、彼の乳母父である比企能員は激怒。
病床の頼家に北条氏の身勝手な決定を報告しました。
怒り心頭となった頼家は能員に時政追討を命じたのです。
しかし、計画を北条政子経由で耳に入れた北条時政は逆に先手を打って比企氏討伐を実行しました。
こうして1203年には比企能員だけではなくその一族も討たれて滅亡しています。
将軍の失脚と死
病状が回復した時の頼家は、自分が比企氏という側近一族を失い1人残されたことを悟ります。
怒りのままに時政討伐を命じても従う者はありません。
頼家は北条氏によって強制的に出家させられ、伊豆国の修禅寺に追放・幽閉されます。
鎌倉殿の地位を実弟の源実朝によって奪われ、実質的な鎌倉幕府の権力は北条時政によって握られました。
すっかり無力となった頼家は、1204年7月18日に北条氏の手の者によって暗殺されています。
源頼家暗殺事件
鎌倉幕府の『吾妻鏡』による頼家の死の事実のみを淡々と述べる内容とは違い、
京都側の歴史書として知られる『愚管抄』(関白九条兼実の弟、天台座主・慈円による)には頼家の悲惨な最期について記されています。
頼家の最期の様子
頼家は軟禁されていた伊豆の修禅寺で、入浴中に刺客に襲われました。
刺客は頼家のの首を絞めた上、フグリ(睾丸)を切り落として失血死させた、
もしくはそうやって抵抗力を無くした上で刺殺したということです。
頼家の不気味な木彫りの面
修禅寺には「頼家の顔」といわれる木彫りの奇妙な面が寺宝として伝わっています。
寺伝では、頼家は暗殺される以前にも危険な目に遭っていたそうです。
謀略によって漆入りの風呂に入ってしまった頼家は、全身が漆のかぶれによって腫れ上がったことがあったのです。
木彫りの面は、その時の腫れて膨れあがった顔の状態を、恨んでも恨みきれない母・政子に見せるために作られたとのこと。
大きな目鼻、頬が盛り上がり、威嚇のためか苦しみのためなのか剥きだした歯・・・。
しかも面の中央に縦に大きく走る亀裂もあり、異様としか表現できない不気味な面です。
この面にまつわる話はあくまで伝承ではありますが、母子でありながら険悪な頼家と政子の関係が象徴されているようです。
北条氏はなぜ頼家を殺し実朝を将軍に擁立したかったのか
頼家と実朝は両方とも北条政子の実の子です。
なぜ北条氏は頼家を排除し、実朝を将軍に擁立したかったのでしょうか。
2人の違いとは何でしょう?
それは、彼らそれぞれの乳母、乳母父のバックグラウンドです。
比企能員(頼朝が最初に挙兵した時から彼を支えた比企一族から選ばれた人物)
・源実朝の乳母
阿波局(北条氏)
当然、北条氏にとって将軍になって自分たちに利をもたらす存在とは、頼家ではなく実朝のほうだったのです。
また、頼家と若狹局(比企氏出身)を両親に持つ一幡が、跡を継いで将軍となれば、比企氏の権力をさらに強固にすることは目に見えています。
だからこそ北条時政は、頼家を将軍から排除し源実朝を次の将軍にする必要があったのでした。
源頼家の墓所
悲劇的な死を迎えた源頼家は、静岡県伊豆市修善寺にある曹洞宗の寺院・修禅寺に眠っています。
(ややこしいのですが、地名は「修善寺」、寺院の名前は地名の由来となった「修禅寺」です)
鎌倉を追放された源頼家はこの寺に幽閉され、指月殿境内にある箱湯で殺害されたとされています。
頼家の墓は、修善寺の温泉街からは少し離れた高台の「指月殿」の裏手のひっそりとした場所にあります。
毎年7月には「頼家まつり」とよばれる墓前供養祭がおこなわれています。
<源頼家の墓: 修禅寺 静岡県伊豆市修善寺935>
きょうのまとめ
源頼家とは?
① 第2代の鎌倉殿となった源頼朝・北条政子の嫡男
② 独裁的な政務を執ったとして御家人たちによる「13人の合議制」によって権力を制限された鎌倉幕府の将軍
③ 北条氏の謀略により将軍職を廃され、追放・幽閉ののち暗殺された悲劇の人
でした。
北条氏一族の繁栄のためとはいえ、弟と天秤に掛けられた結果、実の母親や外祖父によってにいらない命だとされて終わった源頼家の短い生涯は不憫でしかありません。
政子の夫、源頼朝は当然このような事態を予測もしていなかったことでしょう。
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