源頼朝とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

源氏の棟梁として平氏を滅亡に追い込み、そのうえ、幕府の主導する武家政権を史上初めて成立させた人物

源頼朝みなもとのよりとも

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、大泉洋さんに配役が決定!

人気のタレントさんだけに、どのように演じられるのかとっても気になりますよね。

頼朝といえば、日本史の授業を受けていれば、知らない人はいないぐらいの有名人。

でも、武家政権を成立させたって、どれぐらいすごいことなの?

と、あまりピンとこない部分もありますよね。

頼朝の生涯を辿れば、これがとんでもない偉業であることもしっかりわかります。

源頼朝とはいったいどんな人物だったのか、以下より辿っていきましょう。
 

源頼朝はどんな人?

プロフィール

伝源頼朝像(足利直義?)
出典:Wikipedia

  • 出身地:尾張国愛知郡熱田(現・愛知県名古屋市熱田区)
  • 生年月日:1147年5月16日
  • 死亡年月日:1199年2月16日(享年53歳)
  • 源平合戦を制し、鎌倉幕府を創設した初代将軍。朝廷から政権を手繰り寄せ、史上初の武家政権を成立させた。
 

源頼朝 年表

年表

西暦(年齢)

1147年(1歳)熱田神宮の大宮司・藤原季範すえのりの別邸にて、源義朝の三男として生まれる。

1158年(12歳)統子むねこ内親王の立后に伴い、皇后宮職に列される。

1159年(13歳)右近衛将監うこんえのしょうげん、二条天皇の蔵人などを務める。「平治の乱」で父義朝が賊軍となり、討伐される。

1160年(14歳)「平治の乱」の罪を問われ、伊豆国へ配流となる。

1177年?(31歳?)伊豆の豪族・北条時政の長女政子を妻に迎える。

1180年(34歳)後白河法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうが平氏討伐の令旨を出したことにより、挙兵。安房国あわのくに(現・千葉県南部)や武蔵国(現・埼玉県)の豪族を束ね、鎌倉入りを果たす。

1183年(37歳)「野木宮合戦」で叔父の志田義広らを下し、東国を平定する。

1184年(38歳)弟の源範頼のりより、義経を代官として京都へ向かわせ、源義仲や平家の討伐に従軍させる。大江広元、三善康信らを中心として、幕府官僚組織の形成にも取り掛かった。

1185年(39歳)範頼、義経によって平家が滅亡。幕府による守護・地頭の設置を朝廷に認めさせた。

1189年(43歳)戦場での専横などを理由に鎌倉を追われていた義経を追討。義経を匿っていた奥州藤原氏を滅ぼす。

1190年(44歳)上洛し後白河法皇、摂政・九条兼実かねざねらと面会。幕府の地位を強固なものとする。

1192年(46歳)後鳥羽天皇の即位に伴い、征夷大将軍に任じられる。

1193年(47歳)「富士の巻狩り」を開催中、留守を守っていた弟・範頼に謀反の疑いが生じ、伊豆へ配流する。

1195年(49歳)東大寺再建供養に伴い、妻子を率いて上洛。後鳥羽天皇と姻戚関係を結ぶべく、朝廷工作を行う。

1199年(53歳)1月11日に出家。2日後の13日に死没する。

 

源頼朝の生涯

以下より、源頼朝の生涯にまつわるエピソードを紹介します!

朝廷への出仕

1147年、源頼朝は尾張国(現・愛知県西部)にて、源義朝の三男として生まれます。

母は熱田神宮の大宮司・藤原季範の娘である由良御前

義朝の正室にあたります。

兄ふたりは側室の子だったため、頼朝は三男でありながら嫡男として育てられ、12歳のころに朝廷へ出仕。

以下のような職を歴任します。

・皇后宮職(皇后の事務を取り扱う)

・二条天皇の蔵人(事務職)

右近衛将監うこんえのしょうげん右兵衛権佐うひょうえのごんのすけ(主に警備など)

義朝の跡取りとして将来を大いに期待されていた頼朝。

しかし1159年のこと、13歳にして早くもその地位は陰りを見せることとなります。

このころ、朝廷内で勢力を増し始めた平氏一門源氏一門が対立。

「平治の乱」で義朝が賊軍として討たれ、頼朝も朝廷を追われる立場となってしまうのです。

翌年、近江国(現・滋賀県)で捕らえられた頼朝は、処刑を免れない危機にさらされますが、池禅尼いけのぜんにという女性の嘆願によって助命されることに。

池禅尼は、平氏の棟梁・平清盛の継母にあたる人物。

助命を願い出たのは、頼朝が早逝した息子にそっくりだったためとされるほか、熱田神宮大宮司家などの願い出があったという説もあります。

ともあれ、助命された頼朝は以降20年、伊豆での配流生活を送ることとなるのです。

伊豆での配流生活

伊豆へ配流となった頼朝が過ごしたのは、北条時政が治めていた蛭ヶ小島ひるがこじまという土地でした。

時政のほか、

・山木兼隆(伊豆目代)

・伊藤祐親すけちか(伊豆半島東岸の豪族)

などの人物が、頼朝を監視する役目を担っていたといいます。

頼朝は流人として暮らすなか、仏教に帰依。

伊豆山権現、箱根権現などに足しげく通い、父義朝をはじめ、源氏の祖先を熱心に弔いました。

また、現地では庶民と接する機会が多く、そのことが頼朝に武家政権の構想を抱かせるにいたったともされています。

平安期までの朝廷政治は、貴族のことを第一に考えた政治。

武士のもつ所領は所有権が保証されておらず、いつ他勢力に攻められ、奪われてもおかしくない状態にありました。

武家政権を樹立し、将軍という立場から御家人の所領を安堵する。

頼朝のこの構想は、武士という平民にスポットを当てた、日本の民主主義の元祖といえるのかもしれません。

平氏討伐の挙兵


20年の配流生活を経た1180年のこと、頼朝に思ってもみない転機が訪れます。

朝廷内で権力をほしいままにしていた平氏一門は、その状況に不満を抱いた後白河法皇と対立

なんと、法皇を幽閉し、関白をはじめとする近臣39人を解任するという暴挙に出たのです。

この一件に憤慨した法皇の第三皇子・以仁王もちひとおうが、全国の源氏へ向け、平氏討伐の令旨を下すこととなりました。

この一ヶ月後に以仁王は敗れ、平氏一門は全国の反平氏勢力の討伐を掲げます。

いよいよ自身のところにも、平氏の軍勢が攻め込んでくる。

その局面に立たされ、頼朝は挙兵を決意したのです。

北条時政らとともに挙兵した頼朝は、伊豆目代・山木兼隆を下したのち、陸路で武蔵国(現・埼玉県)を目指そうとしました。

しかし、その道半ばに立ちふさがったのが、大庭景親、梶原景時をはじめとする3000人の軍勢。

頼朝の軍はこの時点で300人ほどしかおらず、大敗を喫することとなります(石橋山の戦い)

山中に身を隠し難を逃れた頼朝は、平氏勢が戦線を張っている陸路を諦め、海路で安房国あわのくに(現・千葉県南部)を目指すことに。

ここから房総半島を拠点に、頼朝はなんと兵力を100倍にまで伸ばしてみせるのです。

関東平定

安房国へ渡った頼朝が頼ったのは、在地の豪族である千葉常胤つねたねと、上総広常かずさひろつね

このうち、上総広常は2万の兵力をもつ有力武将で、頼朝軍の増強に多大な貢献をしました。

おもしろいのが、上総が頼朝がほんとに主君としてふさわしいのか、品定めをしたという話。

頼朝から協力要請を受けた上総は、予定よりも遅れて頼朝の元へ参陣します。

上総
頼朝が並の武将であれば、2万の兵数に喜び、遅れたことを叱責されることはない

上総はこのとき、そのように考えていたといいますが、頼朝は兵数のことなど触れもせず、上総が遅れたことに激怒。

この一件で上総は頼朝を主君として認め、忠誠を誓うようになったのです。

こうして3万の兵を率いて鎌倉入りを果たした頼朝。

以後、鎌倉には源氏に加勢する者が続々と集まっていきます。

この状況を危惧した平清盛は頼朝討伐の軍勢を派遣しますが、時すでに遅し。

頼朝の兵力はすでに20万ほどになっており、臆した平氏軍は、ほとんど戦わずに帰参することになりました(富士川の戦い)

続いて頼朝は、常陸国ひたちのくに(現・茨城県)の佐竹氏や、叔父の志田義広らを破り、関東の対抗勢力をすべて排することに成功しています。

源平合戦

平氏討伐を掲げた源氏の勢力は大きく分けて、関東を抑えた頼朝北陸一円を抑えた源義仲がいました。

このうち、先に平氏討伐に繰り出したのは義仲のほうです。

1183年のこと、義仲の勢力拡大を懸念した平氏勢は、十万の兵を率いて北陸へと攻め寄せます。

しかし義仲は奇襲作戦を用い、半数の5万の兵で平氏勢を下すことに。

勢いに乗って平氏勢を京都から追い出し、入京を果たします。

ただ、ここからの義仲の動向が問題でした。

京都へ入った義仲軍は、我が物顔で食料を食べあさり、庶民たちを相当に困らせていたのです。

手を焼いた後白河法皇は、義仲を京都から遠ざける目的も含め、平氏の追討を命じるものの、成果は上がらず。

そうこうするうちに平氏勢は見る見る勢力を回復させ、再度入京すべく、播磨国はりまのくに(現・兵庫県)に陣を敷くまでの状況になっていました。

この機に際し、後白河法皇は頼朝を頼り、義仲と平氏の討伐を要請するのです。

しかし、いくら法皇からの命とあっても、頼朝自身が鎌倉を離れるわけにはいきません。

なぜかといえば、少しでも隙を見せれば、東北地方を牛耳る奥州藤原氏に背後を突かれるためでした。

奥州藤原氏の当主・藤原秀衡ひでひらは1181年、平清盛によって陸奥守むつのかみの官職に任じられており、頼朝勢力の警戒網の役目を担うようになっていたのです。

そのため、頼朝は自身に代わって軍を率いる代官を派遣します。

それが弟の範頼のりより・義経でした。

弟たちに代官を任せたのは、ほかの御家人に任せると、兵が従わないことを懸念してのもの。

「我々は源氏を主君に掲げているのに、どうして御家人風情に従わねばならないんだ!」

という風潮があったのですね。

特に義経は戦術の天才と知られますが、大将として選出された理由は、単に頼朝の弟だからです。

案外、「やらせてみたら才能があった」というだけの話だったのかもしれません。

ふたりの弟は1184~85年にかけて義仲や平氏勢を下し、長く続いた勢力争いを終結させることになります。

その間、頼朝は大江広元や三善康信など、朝廷に務めていた優秀な事務官を迎え入れ、幕府の基盤となる組織を構築していきました。

義経の追放

1185年、壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡すると、源範頼は九州に残って戦後処理を行うことに。

一方、義経は平宗盛らを連行する役を任されますが、なんと鎌倉を目前にして、頼朝から鎌倉入りを禁じられてしまいます。

義経は在京中、頼朝の許可なく独断で朝廷から官位を賜ったほか、戦場での独断専行が目立ち、配下の兵から苦情が寄せられていたのです。

・捕らえた敵兵の処罰を勝手に決める

・作戦に関しても部下の進言を聞き入れず、口を挟むと逆ギレ

・自身の戦功を鼻にかけた振る舞い

など、配下の兵は辟易していたといいます。

範頼が戦況をマメに報告していたのに対し、義経は頼朝への報告もほとんどしていなかったという話。

これらの行いを咎められ、鎌倉入りできなくなった義経は、今度は頼朝に逆ギレ。

義経
関東に恨みがある者は義経に従え!

と、声を上げ、頼朝への敵意を剥き出しにするようになります。

このあと義経は頼朝によって伊予守いよのかみに任じられ、一度は和解の兆しが見えたようにも思えました。

しかし、叔父の源行家の討伐を命じられた際に出陣を渋ったことで完全に謀反人となり、幕府から追われる立場となってしまうのです。

以降、義経は九州方面へ逃亡し行方不明となりますが、意外にもこの事件が鎌倉幕府の隆盛に大きく関わっています。

政権の掌握

実のところ頼朝は、義経が行方不明になったこの状況を利用し、大きな改革を成し遂げています。

それは、全国に幕府から派遣した守護・地頭を置くこと。

これは朝廷が所有する領地の統治を幕府に任せることを表しており、幕府に政権を委ねることにほかなりません。

この重大事を朝廷に認めさせるには、何かしら差し迫った理由が必要でした。

そこで、頼朝は行方不明になった義経を利用したのです。

頼朝
謀反人となった義経は、全国のどこに潜んでいるかわからない。

もし発見できたとして、戦に慣れていない朝廷の役人では、義経を捕らえることは至難の技。

それなら各地に守護・地頭を置いて、幕府が追討の責任を負いますよ。

と、朝廷に迫ったのです。

また、義経が行方不明になる少し前のこと、朝廷は義経に促され、頼朝討伐の宣旨を下していました。

これは、義経があまりにしつこく求めたからで、朝廷としてはその場しのぎのつもりで下したものです。

しかし、頼朝にとってはこれも守護・地頭の設置を認めさせる格好の材料となりました。

頼朝は自身に討伐の宣旨が下されたことに激怒。

頼朝
どういうことだ!

と朝廷を責め立て、幕府の要求を余計に断りにくくすることに成功しました。

こうして頼朝は政権を朝廷から幕府へ手繰り寄せるという前代未聞の偉業を、いとも簡単に成し遂げてみせたのです。

奥州藤原氏を討伐

1188年、行方不明になっていた義経は、奥州平泉へ逃げ込み、奥州藤原氏に匿われています。

実はこのことも、鎌倉幕府の勢力を広げるための後押しとなりました。

前述の通り、奥州藤原氏は頼朝に対する警戒網の役割を果たしており、朝廷としては、幕府を抑えておくための最期の砦でした。

頼朝にとっては邪魔でしかありませんが、討伐しようにも簡単には宣旨が取り付けられない状況にあったのです。

そんな奥州藤原氏に、今や朝敵とされている義経が逃げ込んだことが、頼朝にとっては願ってもみないチャンスとなりました。

そう、頼朝は奥州藤原氏が義経を匿ったことを理由に、討伐の宣旨を取り付けようとするのです。

しかしさすがにこのときは宣旨が下されず、結局は

「御家人は天皇の部下ではなく、将軍の部下だから、宣旨は関係ない」

という半ば無理矢理な理由をつけて挙兵が行われることに。

あっけにとられた後白河法皇も、奥州藤原氏が滅ぼされた事実を受け、幕府の挙兵を追認せざるを得ませんでした。

こうして、幕府の覇権を阻むものは何もなくなりました。

以降、1192年に頼朝が征夷大将軍に任じられたことで、史上初の武家政権がついに認められるにいたります。

ちなみに、義経は奥州合戦の少し前、幕府から圧力をかけられた藤原泰衡やすひらによって自刃させられたことになっていますが、その真偽はわかっていません。

義経の逃亡劇は、頼朝にとって有利な状況を次々に作り出したため、実は義経と頼朝が結託したうえで行われたことだったという説もあります。

それなら、義経が奥州からさらに逃げ延びられるよう、頼朝が手を打っていてもおかしくないですよね。

晩年


頼朝の晩年に関しては、後鳥羽天皇との姻戚関係を結ぶべく上洛し、朝廷工作を行ったことのほか、あまり記録が残っていません

そのなかでわかっているのが、1198年の暮れに、妻・北条政子の妹を弔って建てられた相模川の橋供養に出かけ、その帰路で落馬したということ。

以降体調を崩し、翌年の1月13日に亡くなったとされています。

 

源頼朝の逸話

源頼朝には、その人となりを物語る興味深い逸話がいくつも残されています。

北条政子との熱愛

伊豆で流人として暮らしていたころ、頼朝は北条時政の娘・北条政子と結婚しています。

武士同士の結婚といえば、同盟を結ぶための政略結婚が思い浮かびますが、頼朝と政子は正真正銘の恋愛結婚でした。

頼朝と政子の住居は1キロぐらいしか離れておらず、顔を合わす機会が多いふたりは次第に恋仲になっていったのです。

しかし、頼朝の監視を任されている時政としては、娘を嫁がせるなんてもってのほか。

それこそ、平氏一門から睨まれてしまいかねません。

そのため時政は、伊豆目代・山木兼隆に政子を嫁がせることにするのです。

政子は地域一の美人で通っていたため、兼隆にも大喜びで迎え入れられました。

しかし、新婚初夜のこと、宴会ですっかり酔っぱらった兼隆を尻目に、政子は脱走。

頼朝と共に伊豆山権現へ逃げ込むのです。

以後、兼隆からの追求はあったものの、僧兵に守られる形で難を逃れたという話。

このような熱愛を経て結ばれたふたりのこと、晩年まで仲が良く、頼朝が愛人を作って大変な騒動に発展したという話もあります。

将軍には側室がいて当たり前のような気がしますが、恋愛結婚の頼朝は例外だったのかも…。

頼朝は人情味あふれる人物だった

弟の義経を追放した話などから、どこか非情なイメージのある頼朝ですが、実際は人情味あふれる人物だったといいます。

たとえば、範頼・頼朝軍が平氏勢と初めて戦った「一ノ谷の戦い」のあと、捕えられた敵将・平重衡しげひらが鎌倉へ送られてきたときのこと。

重衡は平氏勢でも屈指の名将と呼ばれた人物で、頼朝を前にしてもその気迫は少しも衰えず…

「平氏の勢いが衰え、囚人として捕らえられた今、あれこれ言うことはありません。

戦って捕虜となることは決して恥ではない。このうえは早々に斬罪に処していただきますように」

と、言い放ったといいます。

その器の大きさに感動した頼朝は、政子の侍女でも特に気立てのよい千手の前という女性を、重衡に仕えさせました

このほか、石橋山の戦いで頼朝を追討しようとした伊藤祐親に関しても、一度は捕らえたものの、嫡男頼家が生まれたお祝いに赦免しようとしています。

結局、祐親は

「以前の行いを恥じる」

と言い、自刃してしまうのですが…。

頼朝は敵味方分け隔てなく接することができる、そんな気概のある人物だったのです。

 

きょうのまとめ

たった300人しか兵を連れていなかった頼朝が、数年後には全国の勢力を牛耳り、数百年続いた朝廷政治をもくつがえしてしまった。

その生涯には、とても壮大な下剋上が巻き起こっていました。

最後に今回のまとめです。

① 源頼朝は14歳から20年間、流人として過ごした。そのなかで庶民と接する機会をたくさんもったことが、武家政権の構想に繋がったとされている。

② 平氏討伐の令旨を受け、頼朝はごく少数の兵を率い、命からがら伊豆を抜け出す。そこから在地の豪族を頼り、兵力を何百倍にも増強していった。

③ 源平合戦直前、京都は、源義仲が暴挙を振るい、追い出した平氏勢も入京を試みる混沌とした状態だった。頼朝は鎌倉を守らなければならず、代官として範頼・義経を派遣する。

④ 源平合戦が終わると、頼朝は義経の独断専行を叱責し、鎌倉から追放してしまう。義経が行方不明になったため、追討を理由にして、朝廷に守護・地頭の設置を迫った。

⑤ 奥州藤原氏は頼朝の警戒網の役を果たしており、討伐の宣旨を取り付けることが難しかった。しかし義経が奥州藤原氏を頼ったことで頼朝は大義名分を得て、討伐を成功させた。

日本史といえば、源義経のようにわかりやすい戦功を挙げた武将に目がいきがちです。

しかし、頼朝が行った朝廷との駆け引きもよく知ってみると、それにも勝るおもしろさがあるものですね。

 
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