北条義時は父親の時政に続き北条家の2代目として鎌倉幕府の執権となりました。
彼が達成したこと、どんな人物だったのかを生涯を辿りながら見ていきましょう。
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北条義時はどんな人?
- 出身地:伊豆国(現伊豆の国市江間)
- 生年月日:1163年
- 死亡年月日:1224年6月13日(享年62歳)
- 承久の乱で朝廷に圧勝し、源頼朝が開始した武家政権を全国規模にして完成させた鎌倉幕府の第2代執権
北条義時年表
西暦(年齢)
1163年(1歳)誕生
1180年(18歳) 父・北条時政と共に源頼朝挙兵に従う
1189年(27歳)奥州藤原氏との奥州合戦に鎌倉政権方として参加。頼朝上洛に随行
1199年(37歳)頼朝死去。頼家を補佐する13人の合議制のメンバーとなる。梶原景時の変
1203年(37歳)比企能員の変
1205年(43歳)畠山重忠の乱。対立した父・時政を追放
1213年(43歳)和田合戦
1219年(57歳)第3代将軍・源実朝が暗殺される
1221年(59歳)承久の乱で後鳥羽上皇の朝廷軍に圧勝
1224年(62歳)脚気のため死去
北条義時の生涯
鎌倉幕府研究には欠かせないとされる幕府の歴史書『吾妻鏡』には、北条義時が再三登場しています。
義時誕生から源頼朝の側近へ
北条義時は源頼朝が伊豆に配流された3年後の1163年に、北条時政の次男として伊豆で誕生しました。
彼の姉には政子がいました。
幼い頃から源頼朝を知る義時は、1180年に頼朝が平氏討伐の兵を挙げた際には父・時政、兄・宗時と共に頼朝に従軍。
石橋山の戦いで宗時が討死すると、それ以降は義時が北条時政の嫡男の立場となりました。
1185年の葦屋浦の戦いで武功を立て、1189年の奥州藤原氏との奥州合戦にも従軍。
義時は信頼を受けた頼朝の側近として成長していきました。
13人の合議制メンバーから第2代執権へ
1199年の源頼朝の死後は、まだ18歳の源頼家が鎌倉殿(第2代将軍)となりました。
頼家による独裁を抑えるため、有力御家人13人による合議制による鎌倉幕府の運営が始まりました。
義時は最も若いメンバーとして父・時政と共に13人の中に加わり、政治に関与し始めます。
頼朝という武家の棟梁を失った鎌倉幕府では、御家人同士の政争問題が浮上していました。
・1203年 比企能員の変(比企能員とその一族の滅亡)
これらの事件では北条氏の権力拡大の障害となる人々が排除されました。
北条時政は、さらに滅ぼされた御家人たちを重用していた第2代将軍・源頼家までもを廃し、第3代将軍として頼家の弟で12歳の源実朝を据え、執権となって幕府の実権を握ったのです。
1205年、時政は継室(後妻)の牧の方の讒言をきっかけにして人望の厚かった畠山重忠・重保父子を討ったあと、実朝の暗殺を画策しますが失敗して失脚。
父・時政と先妻との子である義時は、その後対立していた父の職を継ぎ第2代執権となりました。
独裁体制の確立と病死
こうして鎌倉幕府の政治運営は、御家人による合議体制から執権としての北条義時と、彼の姉であり源頼朝の未亡人である北条政子を中心とする独裁体制へと変わっていきました。
義時は1213年、打倒北条氏の陰謀を画策した和田義盛一族の討伐にも成功しています。
1219年、将軍実朝が甥の公暁(「こうきょう」と読む説もあり)によって暗殺され、源頼朝直系の血統が絶えてしまいました。
そこで彼は京都から九条頼経を第4代将軍に迎え、政子と共に実権を握り続けたのです。
実は、実朝の暗殺が北条氏の陰謀だという説も有力です。
ただ当時北条氏による武家政権の勢力は、まだ日本全国に及んでいたわけではありません。
朝廷もまだ実権回復のチャンスを狙っていたのです。
1221年後鳥羽上皇による討幕計画を知った義時は、大軍で京都へ攻め上りました。
これが幕府軍と朝廷軍との戦いとなった承久の乱です。
幕府が圧勝し、敗北した上皇は隠岐に流されました。
乱後、義時が京都の情勢を監視するための六波羅探題を設置し、朝廷方から没収した所領に東国の御家人を地頭として送り込むと、東国中心だった鎌倉幕府の勢力範囲が西日本へと一挙に広がりました。
北条氏の権力を拡大させることに成功した義時でしたが、乱の3年後である1224年に62歳で亡くなりました。
死因は、脚気衝心(脚気が原因の心不全)と言われていますが、後妻の伊賀の方が毒殺したという説もあるようです。
義時の嫡流は「北条得宗家」と呼ばれ、その後7代に渡る北条氏による執権政治で一時代を築きました。(義時の父・時政を初代として全9代を得宗とする場合も)
後鳥羽上皇が義時に挑んだ承久の乱とは?
承久の乱は、1221年に後鳥羽上皇が、北条義時を追討する院宣を発して挙兵し、義時がそれを制圧し圧勝した戦いです。
上皇の挙兵目的が、義時個人を討伐することだったのか、朝廷の復権をめざすためだったのかは、現在も研究者の間で見解が分れています。
乱が起きるまでの背景
1219年に鎌倉幕府執権となった北条義時でしたが、当時の幕府権力は東国中心で、西国へはまだ十分な支配力がありませんでした。
つまり、東国は幕府、西国は朝廷が掌握するといった状態だったのです。
後鳥羽上皇は、文武両道の人物であり、朝廷の軍事力の拡大強化にも積極的。
支配の方法が原因でたびたび朝廷と幕府との間で諍いとなっていました。
第3代将軍・源実朝が暗殺されて頼朝の嫡流が途絶えると、幕府は皇族将軍を立てることを望みます。
後鳥羽上皇の皇子・雅成親王を鎌倉殿として迎えようと上皇に申し出ますが、話は決裂。
代わりに摂家(藤原氏の嫡流で公家の頂点にあった家系)から九条頼経を迎えて鎌倉殿(将軍)とし、執権の義時が政務を執る執権体制を構築すると、後鳥羽上皇と義時の関係は険悪化しました。
上皇の挙兵
1219年7月、内裏守護を担当していた幕府の御家人・源頼茂が朝廷の西面武士に殺害されました。
後鳥羽上皇による鎌倉調伏のための加持祈祷が行われていたことを察知したからだと考えられています。
朝廷と幕府間の緊張は高まっていきました。
1221年5月14日、ついに後鳥羽上皇は倒幕を目指して挙兵。
15日には後鳥羽上皇は義時追討の院宣を全国に発布し、諸国の守護・地頭たちに上皇のもとへ集まってくるよう命じたのです。
鎌倉武士たちは朝廷に反逆する「朝敵」となることを恐れ、動揺します。
しかし、北条政子による鎌倉幕府創設以来の頼朝の恩と皆の結束を訴える涙の大演説は、御家人たちの心を動かし、幕府軍は義時を中心に一致団結したのでした。
総勢19万騎の大軍で京へ攻め上った幕府軍は狼狽する朝廷方を抑え圧勝しています。
乱後、倒幕計画は近臣による勝手な行動だと弁明した後鳥羽上皇ですが、幕府は上皇を首謀者と見て厳しく対処しています。
上皇は所領没収の上、隠岐島に配流され、当地で没しました。
北条義時の墓所
義時の墓所として知られるものは2ヶ所あります。
1ヶ所目は、伊豆韮山の義時が創建した寺・北條寺境内にある義時夫妻の墓です。
義時の嫡男・泰時らによって建てられました。寺の説明板によると2つ並んだ墓の右側が義時、左側が彼の後妻・佐伯氏娘のものだそうです。
<北条義時墓所:北條寺 北条義時夫妻の墓 静岡県伊豆の国市南江間862-1>
2ヶ所目は、鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』に義時が葬られたと記載されている「法華堂」です。
鶴岡八幡宮の西御門にある源頼朝の墓から東に100メートルいった山の中腹にあります。
長く場所は不明でしたが、2005年6月に法華堂の遺構が発見されました。
現地には「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の石碑が建っています。
<北条義時墓所:史跡法華堂跡 神奈川県鎌倉市西御門2丁目5>
きょうのまとめ
北条義時とは?
① 鎌倉幕府の13人の合議制メンバーの1人
② 北条氏嫡流 「北条得宗家」の始まりとなった鎌倉幕府第2代執権
③ 承久の乱で朝廷軍を抑え、鎌倉幕府の力を全国規模に拡大した中心人物
でした。
北条義時は、個人的に大きな武功を挙げた武将ではありませんが、時流を見極め冷静に立ち回った結果、執権としての北条氏の繁栄を導いた人物といえそうです。
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