栗本鋤雲とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末期、主にフランスとの外交に功績があったとされる幕臣

栗本鋤雲くりもとじょうん

大河ドラマ『青天を衝け』にも、実力派俳優・池内万作さんの配役で登場が決定。

フランスとの外交と聞いてピンと来た人もいるでしょう。

そう、鋤雲は渋沢栄一とも、パリ万博のくだりでばっちり関わっています。

そんな鋤雲、もともとは幕府のお抱え医師だったといいますが…?

いったいどんな人物だったのでしょうか。
 

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栗本鋤雲はどんな人?

プロフィール
栗本鋤雲

栗本鋤雲
出典:Wikipedia

  • 出身地:江戸・小川町裏猿楽町うらさるがくちょう(現・千代田区神田猿楽町)
  • 生年月日:1822年5月1日
  • 死亡年月日:1897年3月6日(享年76歳)
  • 幕末期、医師から転身し、北海道の開発事業、幕府の外交交渉などを担った人物。ジャーナリストとしても有名。

 

栗本鋤雲 年表

年表

西暦(年齢)

1822年(1歳)奥医師・喜多村槐園かいえんの三男として生まれる。

1830年(9歳)朱子学者・安積艮斎あさかごんさいの私塾に入学する。

1840年(19歳)幕府の教育機関・昌平坂学問所に入学。成績優秀者として褒賞を受ける。

1848年(27歳)奥医師・栗本家の家督を継ぎ、奥医師となる。

1858年(37歳)オランダ式軍艦・観光丸に乗船したことを同僚に咎められ、蝦夷地えぞち(北海道)へ左遷。

1858~1861年(37~40歳)七重ななえ薬園(現・静観園)、箱館医学所(現・市立函館病院)を開設。そのほか植林や養蚕、食肉、久根別くねべつ川の整備などに尽力する。

1862年(41歳) 箱館奉行に任じられる。樺太・南千島を調査後、ロシアとの外交関係を論じる建議書を提出する。

1863~1866年(42~45歳)昌平坂学問所頭取、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を兼任。横須賀製鉄所の建設、フランス軍事顧問団の招聘しょうへい、欧米諸国との交渉などを担った。

1867年(46歳)将軍名代・徳川昭武あきたけのパリ万博参加に伴い、ヨーロッパへ。フランスやイギリスとの外交交渉を担う。

1868年(47歳)帰国。新政府から出仕の誘いを受けるも辞退する。

1872年(51歳)新聞記者・仮名垣魯文かながきろぶんの推薦で横浜毎日新聞に入社。

1873年(52歳)郵便報知新聞の編集長となる。

1897年(76歳)気管支炎を患い、本所(墨田区)の自宅で死去。

 

栗本鋤雲の生涯

医師・実業家・幕臣・ジャーナリスト…。

以下より、目まぐるしく転身した栗本鋤雲の生涯に迫ります!

学問に打ち込んだ幼少期


1822年、栗本鋤雲は江戸、現在の千代田区神田猿楽町さるがくちょうにて生まれました。

父は奥医師・喜多村槐園かいえん

奥医師というのは将軍家に出入りする医師で、当時の医師界隈では一番のエリートにあたります。

そんな家庭に生まれた鋤雲は9歳から朱子学者・安積艮斎あさかごんさいの塾で学ぶことに。

安積は外国事情にも詳しかったといい、のちに幕府の外交を担う鋤雲も少なからず影響を受けたのではないでしょうか。

ともに幕政に携わる小栗忠順ただまさとも、ここで知り合っているという話です。

幼少は病弱で苦労したという鋤雲ですが、負けじと学問に精進。

19歳で幕府の教育機関・昌平坂学問所へ進むと、成績優秀者として褒賞を受けるほどになりました。

そして27歳のころ、奥医師・栗本家の家督を継ぐこととなり、鋤雲は晴れて奥医師デビューを果たすのです。

養子に出されたのは三男だったため。

この時代はお医者さんもそれなりの家格がないと認められなかったのですね。

蝦夷地(北海道)への左遷

医師として順調にエリート街道を歩んでいたはずの鋤雲。

ところが34歳のころ、とある事件が起こります。

長崎海軍伝習所に贈られたオランダ式軍艦・観光丸に興味をもった鋤雲は、乗船の許しを得てその船内に踏み込みました。

すると、同僚の医師がめちゃくちゃ怒り出したのです。

「幕府の医師が、西洋趣味にうつつをぬかすとは、けしからん!」

そう、この時代の幕府の医師は漢方治療が主流で、“西洋医学なんて邪道”という習わしがあったんですね。

だからって外国製の船に乗っちゃいけないって…。

黒船来航の直後ですから、世論もピリピリしていたのかもしれません。

この紆余曲折があり、鋤雲は1858年、37歳にして蝦夷地(北海道)へ左遷されることとなるのです。

しかし、この左遷が鋤雲にとっては転機でした。

蝦夷地を大改革

蝦夷地へ渡った鋤雲は、江戸の型にはまった封建制度から解放されることになり、

「ここでならいろんなことができるぞ!」

と奮起。

薬草作りに適した地質と見るや薬草園を開き七重ななえ薬園)

病人の受け入れ施設が足りていないと見るや病院を開き(箱館医学所)

これだけでもすごいのですが、八王子から人でを呼び寄せると、さらにいろんな事業に乗り出していきます。

・養蚕

・牧畜

・運河の整備

・植林

もうなんでも来いです。

え…あなたお医者さんですよね?

というぐらいの功績は幕府にもすぐ認められました。

1862年のこと、鋤雲は武士の身分となり、箱館奉行に任じられるのです。

江戸幕府の身分制度は生まれがすべてなところがありますから、この出世は蝦夷地へ飛ばされなければ成し得ないものだったでしょう。

ちなみに箱館奉行になってからは北方領土の調査を行い、ロシアとの関係について幕府に意見したりもしています。

マジで、あなたお医者さんですよね…?

江戸へ出仕。外交官として大活躍


1863年になると、鋤雲の能力を欲した幕府は、江戸へと彼を呼び戻します。

当初は昌平坂学問所の頭取として。

ただ、すぐに外国奉行、勘定奉行に任じられ、幕政に参画するようになっていきます。

幼なじみの小栗忠順と連携したのも、このころの話です。

幕府の事業で鋤雲が特に功績を残したのは、

・横須賀製鉄所の建設

・フランス軍事顧問団の招聘しょうへい

などに際して。

このふたつの事業はどちらもフランスの力を借りたもので、鋤雲はその交渉役を任されました。

鋤雲は蝦夷地にいたころ、フランス人宣教師メルメ・カションからフランス語を習っており、その伝手でフランス公使レオン・ロッシュとも面識があったためです。

特に横須賀製鉄所に関しては、建設費240万ドルで見積もりを取り付け、幕府が考えていた予算の半額ほどの値段に抑えています。

なんでも、幕臣には反対意見を唱える者もおり、こんなやり取りもあったという話。

幕臣:「もっとほかのことに金を使ったらどうなんだ!」

鋤雲
今すぐに役に立たなくても、こういうものを作っておけば、あとの時代に必ず活きるんです!

その言葉通り、横須賀製鉄所の完成を待たず、幕府の時代は終結。

横須賀製鉄所は明治政府に重用されることになるのでした。

このほか、当時のフランスでは蚕の病気が蔓延して生糸が採れなくなっており、

日本の生糸を融通してあげたことが、信頼関係につながったという話もあります。

パリ万博でヨーロッパへ


1867年になると、幕府のパリ万博出展が決定。

徳川慶喜の実弟・徳川昭武あきたけが将軍名代として派遣されることとなります。

随員として同行した渋沢栄一が西洋文化に触れ、明治期に事業を起こすきっかけとなった出来事でもありますね。

この一件で、ようやく渋沢栄一と鋤雲の接点が出てきます。

鋤雲もこのとき、ヨーロッパへ向かっているのですが、実はこれは昭武一行とは別便での渡欧。

昭武がパリへ向かってから5ヶ月後の出発でした。

このとき、実は幕府とフランスのあいだではちょっとしたトラブルが起こっており、鋤雲はその解決のために派遣されるのです。

昭武はパリ万博のあと、そのままヨーロッパで留学するよう、慶喜から命を受けていました。

その留学先をパリから、突如ロンドンに変更しようとしたことが問題となったのです。

当時、フランスとイギリスは日本での主権を巡って犬猿の仲。

昭武がロンドンに留学することになり、幕府に協力的だったフランスの機嫌を損ねてしまったのです。

そこで、幕府はフランス語に精通している鋤雲を派遣。

昭武や、ロンドン行きを推していた渋沢栄一を説得したほか、フランスとの交渉を担い、事態を収拾させます。

その後、鋤雲はヨーロッパの文化を見学して回っていましたが、大政奉還の知らせが届き、帰国することとなりました。

(※大政奉還…幕府が政権を朝廷に返上した出来事)

鋤雲は現地の文化に触れつつ、

「これは日本にもぜひ取り入れるべきだ!」

みたいなことをたくさん考えていました。

しかし、帰国すると政府の誘いも断り、表舞台からすっかり姿を消してしまいます。

自分はあくまでも幕府に忠誠を誓った身。

鋤雲
幕府を敵とした新政府に下るつもりはない

と誘いをきっぱり突っぱねたのです。

ジャーナリストとなる


明治に入ってからというもの、家禄を返上して小石川の自宅に籠っていた鋤雲ですが、

あるとき新聞記者の仮名垣魯文かながきろぶんの誘いを受け、横浜毎日新聞の記者になります。

こうして51歳から、鋤雲のジャーナリストとしてのセカンドライフの幕開けです!

いや…医者から北海道開発、幕府の外交官と…転身しすぎてて、もういったい何ライフかもわかりません。

翌年には、郵便報知新聞の編集長に。

第29代内閣総理大臣・犬養毅いぬかいつよしがこのときの部下だったという話もあります。

鋤雲は記者を集めるのに福沢諭吉を頼ったといい、慶應義塾生だった犬養が紹介されたのでしょう。

で、記者としての鋤雲はどうだったかというと、

読む人が思わず姿勢を正してしまうような、心の引き締まる文章を書く人だったのだとか。

自分の力でいろんな道を切り拓いてきた人だからこそ、説得力がある記事を書けたのでしょうね。
 

きょうのまとめ

幼少から学問に邁進した栗本鋤雲は、偶然北海道の地に身を移したことで才能を開花させました。

以降、幕臣としても、幕府がなくなってからも多方面で重宝されていったその才能。

浮いたり沈んだり、見ていてワクワクさせられる人生を送った人でしたね。

最後に今回のまとめ。

① 栗本鋤雲は幕府のお抱え医師の家系に生まれ、幼少から学問に励んでいた。昌平坂学問所では成績優秀者として褒賞を与えられた。

② 37歳のころに、外国製の軍艦に乗ったことを咎められ、蝦夷地(北海道)へ左遷となる。そこから病院・植林・養蚕・牧畜など、北海道開拓に励んでいった。

③ 北海道での功績が認められ、箱館奉行に。翌年江戸へ呼び戻され、主にフランスとの外交交渉を担う。横須賀製鉄所の建設、フランス軍事顧問団の招聘など。

④ 幕府のパリ万博の際、徳川昭武の留学先がロンドンに変更され、フランスとトラブルに。事態の収拾のため、フランス語に長けていた鋤雲が派遣された。

鋤雲の生涯からは、普段から才能を磨いておくことの大切さを学ばされます。

準備さえできていれば、人生には活かせるチャンスがたびたびあるものなのでしょう。

 
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