徳川斉昭は、江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜の父親として知られる水戸藩第9代藩主です。
2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け」では竹中直人さんが演じられています。
名君と呼ばれた斉昭とはどんな人物だったのでしょうか。
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徳川斉昭はどんな人?
- 出身地:江戸
- 生年月日:1800年3月11日
- 死亡年月日:1860年8月15日(享年61歳)
- 水戸藩第9代藩主。突出したカリスマ性と実行力で藩政や幕府軍制の改革に尽力したが、安政の大獄によって政治生命を絶たれ、志半ばで病没した
徳川斉昭年表
西暦(年齢)
1800年(1歳)第7代水戸藩主・徳川治紀の三男として江戸藩邸で誕生
1829年(30歳)第8代水戸藩主・斉脩の遺言により9代藩主に就任
1844年(45歳)鉄砲斉射や仏教弾圧事件を理由に強制隠居と謹慎処分となる。家督を嫡男の慶篤に譲る
1849年(50歳)藩政関与が許される
1853年(54歳)ベリーが浦賀に来航。老中首座・阿部正弘の要請で海防参与として幕政に関わる
1855年(56歳)軍制改革参与に任じられる
1857年(58歳)開国論、第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で井伊直弼らと対立して敗れ、幕府中枢から排除される
1859年(60歳)井伊直弼の安政の大獄により、水戸での永蟄居を命じられる
1860年(61歳)徳川斉昭が水戸城中で死没
徳川斉昭の生涯
徳川斉昭は、1800年水戸藩の江戸小石川藩邸で第7代藩主・徳川治紀の3男として誕生しました。
幼名は虎三郎、敬三郎。
のちに紀教となり、藩主就任後に第11代将軍・徳川家斉から一字を受けて斉昭と名乗りましたが、本記事では斉昭で統一します。
誕生から家督継承
水戸藩は、水戸黄門で知られる水戸光圀の時代から尊皇攘夷的教育に熱心な藩でした。
そこで学び育った徳川斉昭は、大変優秀で尊皇攘夷思想を持つ少年となりました。
4人兄弟のうち長男の徳川斉脩は第8代藩主となり、2男と4男は養子に出ています。
3男の斉昭だけが部屋住みとして長く家に残ったのは、その優秀さゆえ長男の控えと考えられていたのです。
1829年、兄である8代藩主・斉脩が、跡継ぎを決めないまま病没。
跡継ぎ問題が起きかけたところ、ほどなくして見つかった斉脩の遺書により斉昭が家督を継ぐことになりました。
藩政改革と謹慎
第9代藩主なった斉昭は精力的に、
・門閥派を抑え、家柄にかかわらず優秀な人材を登用
・西洋近代兵器の国産化、蝦夷地の開拓、大型船建造などを実施
・安定した税収確保のための農業改革
・藩士が心身ともに休息できる環境として「偕楽園」を造園
などの藩政改革に取りかかります。
ところが、斉昭は仏教を抑圧して神道を重んじ、寺院を破壊したり一斉射撃などの派手な軍事訓練を行ったため、幕府はにとっては刺激が強すぎたようです。
水戸藩を脅威に感じた幕府は、1844年、斉昭に家督を嫡男・徳川慶篤に譲った上、強制的な隠居と謹慎処分を下しました。
それでも藩内の身分の低い藩士たちにも人気のあった斉昭は、彼らを含めた多くの藩士の運動により1846年には謹慎が解かれ、1849年から藩政に復帰しています。
幕政参画と安政の大獄に続く死
1853年にアメリカ合衆国からペリーが黒船で浦賀に来港しました。
徳川斉昭の知識や軍事力を必要とした幕府の老中・阿部正弘は、斉昭を幕府に迎えます。
海防参与として幕政に関わった斉昭は攘夷論を主張。
江戸防備のために、大砲や弾薬、洋式軍艦までもを建造し幕府に献上したのです。
1855年には軍政改革参与となった斉昭でしたが、攘夷派の斉昭は、開国推進派の井伊直弼と激しく対立し、1857年に阿部が死去すると参与の役を解かれてしまいました。
さらに、斉昭は当時の13代将軍・徳川家定の将軍後継者問題が起きたとき、実子である一橋慶喜を次代の将軍に推す一橋派の中心となります。
一方、井伊直弼は徳川慶福(のちの徳川家茂)を推す南紀派だったので、両者は対立。
そして斉昭の一橋派はこの争いに敗れてしまいます。
1858年、大老になった井伊直弼は、
・徳川家茂の第14代将軍就任
を実行しました。
斉昭はこれらに反発していましたが、政権を井伊直弼から奪取し、幕府の政権を立て直すように指示された孝明天皇からの「戊午の密勅」が水戸藩宛てに出されたことが発覚。
斉昭は「安政の大獄」と呼ばれる井伊直弼の政治弾圧によって1859年に水戸での永蟄居(終身の自宅謹慎)となり、翌年に処分は解かれないまま病没しました。
人間・徳川斉昭がおもしろい
聡明であり、過激な尊皇攘夷思想の持ち主だった徳川斉昭は激しい性格から「烈公」とも呼ばれています。
同時にとても人間味にあふれる人物でした。
質素倹約の奨励
斉昭の兄である8代藩主斉脩の妻が将軍家の娘だった関係上、毎年1万両もの金が下賜されていた水戸藩でしたが、斉昭はこれを返上。
豪華な藩主の食事も断り、以前と変わらぬ通常の食事を出すことを指示したと言われます。
藩本来の石高に見合った生活を行うことを目指した彼は、臣下にも質素倹約を奨励しました。
お気に入りだった側室が衣装代をおねだりした時には激しく怒り、それ以降はお目通りも適わなくなったとか。
未来の将軍一橋慶喜への教育法?
礼儀作法には大変厳しかった斉昭。
息子の慶喜(のちの将軍徳川慶喜)が幼い頃に寝相が悪かったため、
枕の両脇に剃刀を立てて寝かせていたというスパルタな逸話も残っています。
大奥に嫌われた好色斉昭
実は斉昭は、かなり好色な人物だったのだそう。
かつて大奥の「上臈御年寄」(高位の女中。生涯異性関係を持たない決まりがある)だった「唐橋」という女性がありました。
斉昭が大奥を出たあとも貞操を守り続ける律儀な彼女に手を付けたのは有名な話。
大奥を軽んじる唐橋への行為は不評を買います。
さらに好色ゆえに彼自身は37人もの子供を持って金を使う一方、大奥に対しては浪費に不満を示したり、大奥に関係の深い仏教寺院に否定的だったりしたため、当然大奥の人々には人気がありませんでした。
将軍の後継者問題で斉昭が井伊直弼と対立した際にも、彼らは徳川斉昭の味方に付かなかったということです。
「肉食系」だった斉昭
斉昭は肉が大好きな「肉食系」男子でした。
彦根藩から近江牛を送られた際には礼状も書いています。
斉昭にとって彦根藩主で大老の井伊直弼は天敵でしたが、彦根名物・牛肉の味噌漬けは大好きだったそうです。
それとこれとは別、なんでしょうか。
さらに、牛乳が精力剤だと言っていた斉昭は、自らの庭に乳牛を飼い、健康のために牛乳をギヤマン(ガラス)の器に入れて飲んでいたと言われます。
彼のスタミナのヒミツは食生活だったのでしょうか。
徳川斉昭の墓所
水戸藩第2代藩主徳川光圀が初代藩主徳川頼房の遺志を受け継ぎ、墓地と定めたのが茨城県常陸太田市瑞龍町(瑞竜町)にある水戸徳川家累代の墓所瑞龍山です。
水戸藩主徳川家9代の徳川斉昭はここに埋葬されています。
深い木々に覆われたこの地は2007年には国の史跡に指定されました。
残念ながら現在は管理の都合上、一般には公開されていません。
<徳川斉昭墓所:水戸徳川家累代墓所・瑞龍山 茨城県常陸太田市瑞龍町2945>
きょうのまとめ
徳川斉昭とは、
① 尊皇攘夷思想に燃える第9代水戸藩主
② カリスマ的行動力で 藩政改革、藩校「弘道館」設立、幕府の軍制改革などに尽力した人物
③ 大老・井伊直弼と対立し、政治生命を絶たれた安政の大獄犠牲者の1人
でした。
「最後の将軍・徳川慶喜の父」との呼び名で知られる徳川斉昭ですが、息子ばかりではなく彼自体が個性の強い味のある人物なのです。
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