烈公・徳川斉昭の家系図と残した功績 

 

水戸徳川家は尊皇思想が強いことで知られていますが、

その第9代当主となったのが「烈公」のおくりな(生前の事績に基づいて贈られる死後の貴人の名前)を持つ徳川斉昭なりあきです。

最後の将軍・徳川慶喜よしのぶの実父でもあり、聡明で行動的な人物でした。

その斉昭の家系図を辿り、彼が残した遺産ともいうべき功績について見て参りましょう。

 

徳川斉昭の家系図

とくがわなりあき

徳川斉昭
出典:Wikipedia

本文に登場する人物を中心に記載しています。

系図

「水戸徳川家」とは徳川御三家の一つです。

尾張徳川家、紀州徳川家と並び徳川氏の中でも将軍家に次ぐ地位のある家系です。

徳川斉昭の祖先

水戸徳川家は、徳川家康の11男である徳川頼房を祖として始まった家系です。

江戸時代を通じて水戸藩(現在の茨城県中部と北部)を治めていました。

「水戸徳川家」と聞いて思い出すのは水戸黄門こと徳川光圀みつくにですね。

初代頼房の3男だった徳川光圀は2代藩主となりました。

養子縁組で3代、4代を繋ぎ、5代当主は徳川宗翰むねもと

長男・治保はるもりは、藩の財政再建、農村の復興、殖産興業政策に尽力した水戸藩中興の祖と言われる6代当主です。

そして、質実剛健な気風を受け継いだ7代の治紀はるとしが、斉昭の父となります。

8代当主は、斉昭の長兄・斉脩なりのぶです。

弟の斉昭はその次の9代当主となって家督を継ぎました。

斉昭の家族

斉昭は治紀の3男でした。

次男や4男たちが養子に出ていった中、彼だけは部屋住みとして水戸徳川家に残されていました。

長男である斉脩にもしものことがあった場合のために、聡明な斉昭は控えとして置かれたのだそうです。

家族構成は以下の通り。

父:第7代藩主・徳川治紀

母:側室・外山補子

兄弟・妹:
 長男・斉脩なりのぶ
 次男・頼恕よりひろ
 4男・頼筠よりかた
 厚姫

長男で8代当主の斉脩は、1829年に死没。

彼には嫡子もなかったので、家督継承問題が起きました。

最終的には斉脩の遺言状に斉昭を次の当主とする旨が書かれてあり、徳川斉昭が第9代当主となって決着しました。

子供たち

徳川慶喜
さて兄とは対照的に徳川斉昭は子沢山。

正室を含めて10人の女性の間に、なんと男女合わせて37人もの子が!

実は無類の女性好きだったことで知られています。

正室:吉子女王(有栖川宮第6代当主・有栖川宮織仁親王王女ありすがわのみやおりひとしんのうおうじょ

正室との子:
 長男・慶篤よしあつ(水戸藩10代藩主)
 7男・慶喜(一橋徳川家当主・のちの第15代将軍徳川慶喜)

側室・万里小路睦子までのこうじちかことの子:
 18男・徳川昭武あきたけ(清水徳川家当主、のち水戸藩11代藩主)

などの子供たちがいました。

第15代将軍となった徳川慶喜は、血筋的には斉昭の息子ですが、一橋家の養子となったのちに将軍に就任したことから、慶喜の家系と斉昭の家系とは別のものと考えられています。

斉昭の子孫たち

水戸徳川家を継いだ斉昭の長男・慶篤の子孫は、養子を挟みながら現代にまで続いています。

現在、水戸徳川家の第15代当主は、徳川斉正なりまさ氏です。

斉正氏は初代水戸藩主・徳川頼房の男系子孫です。

・東京海上日動火災保険株式会社常勤顧問

・公益財団法人徳川ミュージアム理事長

・一般社団法人監事文化振興協会会長

などを務められてご活躍中です。

こののちは、1990年生まれの息子さんの徳川斉礼なりよしさんが16代として後を継がれるご予定です。 

 

斉昭が残したもの

さて、非常に活動的だった斉昭の功績のうち、形になって現在にまで残ったものをご紹介しましょう。

水戸藩の誇るべき藩校「弘道館」

徳川斉昭による藩政改革の重要施策の一つが、水戸藩の藩校「弘道館」の創設です。

1841年8月1日に仮開館となり、15年後の1857年5月9日に本開館しました。

弘道館は、水戸藩士とその師弟が学ぶ藩校で、日本最大規模という約10.5ヘクタールの広大な敷地を誇ります。

入学年齢は15歳から40歳まで。

興味深いのは、「卒業」の制度がないことです。

まさに生涯教育の場として以下のようなさまざまな科目を学ぶことができました。

【学問】
 儒学・礼儀・歴史・天文・数学・地図・和歌・音楽

【武術】
 剣術・槍術・柔術・兵学・鉄砲・馬術・水泳、

【医学】
 一般医学・種痘・製薬

まるで「江戸時代の総合大学」ともいうべき学問の場を作ったのが斉昭だったのです。

1872年には、明治の「学制発布」によって閉鎖となってしまいましたが、1964年、戦火を逃れた弘道館の正門・正庁・至善堂が国の重要文化財に指定されました。

また、約3.4ヘクタールのエリアが「旧弘道館」として国の特別史跡に指定され、2015年には日本遺産にも認定されました。

<弘道館:茨城県水戸市三の丸1丁目19-26>

日本三名園のひとつ「偕楽園」

金沢の兼六園、岡山の後楽園と共に「日本三名園」の一つとして知られる偕楽園も、徳川斉昭の意向により造園され、1842年に開園しました。

藩士以外の入園は神官や僧侶などの宗教関係者に限られていましたが、次第に庶民一般にも公開され、他国の者も許可制で入園できたそうです。

偕楽園の名将は、中国の古典である『孟子』

「古の人は民と偕(とも)に楽しむ、故に能く楽しむなり」

という一節からとったもの。

斉昭も

「是れ余(斉昭)が衆と楽しみを同じくするの意なり」

と述べています。

美しい庭園は、現在3000本もの梅をはじめとする四季折々の花々や景観を楽しめる名所として知られています。

<偕楽園:茨城県水戸市常磐町1丁目>

 

きょうのまとめ

簡単にまとめると

① 徳川御三家の一つ水戸徳川家の家系は、徳川光圀、斉昭を経て、現在第15代まで続いている

② 徳川斉昭は「江戸時代の総合大学」とも呼ばれる水戸藩藩校「弘道館」を作った

③ 「日本三名園」の一つ「偕楽園」も、徳川斉昭の意向によって造園された庭園である

 
幕末で強烈な個性を発揮した徳川斉昭。

そのバイタリティが、子沢山や後世にまで長く残る施設などに現れていますね。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku