平安時代中期の能筆家たちである三蹟の1人であり、有能な宮廷官僚・四納言のメンバーでもある
藤原行成。
当時の日本の文化と政治のどちらにも欠かせない存在でした。
その行成とはどんな人物だったのか、彼の朝廷での活動を中心にご紹介しましょう。
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藤原行成はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:972年
- 死亡年月日:1027年12月4日(享年56歳)
- 平安中期の三蹟と四納言それぞれに選ばれる人物。爛熟した摂関政治時代に一条天皇や藤原道長に仕えて活躍した能吏にして公卿
藤原行成年表
西暦(年齢)
972年(1歳)誕生。祖父の摂政・藤原伊尹死没
974年(3歳)父の右少将・藤原義孝死没
986年(15歳)昇殿
995年(24歳)源俊賢の推挙により蔵人頭となる
999年(28歳)藤原道長の長女・藤原彰子の入内後、道長の意向で行成が一条天皇に彰子立后の意見具申を行う
1000年(29歳)彰子の立后
1001年(30歳)参議に昇進
1007(36歳)行成、敦康親王家別当となる。従二位に昇叙。参議に昇進。
1011年(40歳)一条天皇に第二皇子・敦成親王の立太子を進言。一条天皇崩御
1018年(47歳)道長摂政を辞し、長男の藤原頼通が摂政となる。行成が家別当として仕えた敦康親王死没。
1020年(49歳)権大納言に昇進
1027年(56歳)藤原道長死没の同日夜に行成死没
藤原行成の生涯
藤原行成は権大納言にまで出世した公卿です。
同時期に活躍した宮廷の貴人として最も良く知られる人物は藤原道長ですが、行成の生涯はまるで彼の影のような一生となりました。
世が世なら・・・不遇な青年時代
972年に誕生した藤原行成は、円融天皇の摂政で太政大臣だった藤原伊尹を祖父に、中古三十六歌仙の1人で美男の歌人・藤原義孝を父にして生まれました。
しかし、生まれてまもなく祖父・伊尹が、3歳の時には父親が急死。
強力な後ろ盾をなくした行成の一族は没落し、朝廷における権力の中枢は藤原道長の一家へと移っていきました。
優れた宮廷官吏の外祖父・源保光より教育を受けた行成。
984年に即位した花山天皇の親戚だったこともあり、侍従として仕えてその後も与えられた職を黙々とこなします。
一方、藤原道長は988年に23歳で権中納言として政治の中枢で活躍していました。
祖父と父を早くに亡くさなければ、行成こそ道長のポジションに就いていたことでしょう。
989年には醍醐源氏である源泰清の娘と結婚しました。
一条天皇と藤原道長から頼られた男
行成の転機は、995年に到来します。
蔵人頭だった源俊賢が、参議に昇進すると同時に、後任として行成を蔵人頭に抜擢したのです。
位階のみで無官の青年が、突然公卿への登竜門である蔵人頭に選ばれたことは、多くの人々の目を引きました。
元々の教養と下積みで培った抜群の実務能力で一条天皇の側近となった行成。
その働きぶりに、摂関政治の中心人物・藤原道長も行成を重用しました。
道長は、一族の天皇との外戚関係を強固にするため、彼に難題を与えますが、行成は次々にそれを解決しています。
一条天皇が優秀な行成を手放さないため、行成の出世は一時停滞しますが、1007年、彼は参議に昇進して公卿となりました。
彼が後任として蔵人頭を譲った相手は、かつて行成を推挙した源俊賢の弟である源経房です。
権大納言の栄光と忘れられた行成の死
1011年に譲位した一条天皇は、三条天皇即位後に崩御します。
その三条天皇も1015年には譲位し、ついに藤原道長の孫が即位し、後一条天皇となりました。
道長も摂政と左大臣を辞め、長男の藤原頼通が摂政となると、行成は頼通のサポートをするようになります。
行成は、1019年に大宰権師さらに1020年に権大納言へと昇進。
しかし、1027年に体調を崩して年末に突然倒れ、亡くなってしまいました。
そして、その彼の死に注目する者はほとんどいなかったのです。
なぜなら、同日早朝に藤原道長が亡くなっており、大騒ぎの世間はそれどころではありませんでした。
藤原道長の影となり、彼の栄華をサポートした行成は、亡くなった時でさえ、道長の栄光の影に隠れたままでした。
それは行成の功績?それとも罪?
行成は、一条天皇と藤原道長の間で双方に対して中立な立場を貫いていました。
そんな行成が、明らかに道長の利益のために動いた案件があります。
行成、一条天皇に道長の娘・彰子との婚姻を認めさせる
天皇家と外戚関係を結び、自分の権力を拡大したい藤原道長は、長女・彰子を一条天皇に娶らせようとしました。
道長は行成に対し、
「既に寵愛する定子という后を持つ一条天皇を説得せよ」
と命じたのです。
定子は、すでに後ろ立てとなる元摂政の父親・藤原道隆もなく、叔父である藤原道長に追い落とされた没落一族の娘であり、一条天皇の愛情だけを頼りに生きていた后でした。
しかし行成は、
・過去に二后並立の前例があること
などを挙げて一条天皇に出家していない彰子の立后を勧め、天皇は2人目の后を受け入れることにしたのです。
定子は自分をよく知る行成の助言と天皇の同意にどれほど悲しんだでしょうか。
この行成の功績に藤原道長は深く感謝し、1000年に彰子は一条天皇の后となりました。
行成、一条天皇に第一皇子の皇位継承を断念させる
さて、一条天皇は既に亡くなっていた后・定子の子、第一皇子の敦康親王を次期天皇に考えて、そのことを行成に相談しました。
一方、道長は、彰子が生んだ自分の孫の第二皇子・敦成親王を次期天皇にしたかったのです。
天皇からの相談に、行成は第一皇子の皇位継承の断念を勧めます。
信頼する行成に諭された一条天皇は、道長が望むままに第二皇子・敦成親王への譲位を決定します。
のちにこの親王が後一条天皇となり、道長は天皇の外祖父として権力をふるいました。
一条天皇と定子を守りたかった行成の真意
実は、彰子立后や敦成親王立太子について、道長にこびへつらったように見える行成の意見と行動には理由がありました。
もし一条天皇が強大な権力を持つ道長の意に背けば、その報復が一条天皇、后の定子、第一皇子の敦康親王らに降りかかるに違いありませんでした。
それを察していた一条天皇は、道長の言いなりになることにしたのです。
ただ、それには表面上だけでも宮廷全体が納得できる理由が必要です。
行成はそんな天皇のために知恵を絞り、大義名分を提示したのでした。
天皇のつらい気持ちを知る行成は、第一皇子に生まれながらも報われなかった敦康親王の家司として仕え、彼が亡くなるまで守り、尽くしています。
それは、天皇の意に添えなかったことへの行成のせめてもの償いだったのかもしれません。
行成の美しい生き方
行成の生き方の凄さは、その絶妙なバランス感覚にあるといえます。
書と官僚業務、一条天皇と道長の間でのバランス
能書家だった行成の書は、貴族社会で熱狂的に受け入れられました。
しかし、彼は書に逃げることなく、後ろ盾のない不遇を嘆きもせず、淡々と官僚の仕事に精を出し、政務能力で宮廷生活を生き残りました。
当時の2大権力者一条天皇と藤原道長の両方に必要とされ、中立を保ちました。
時流を冷静に判断する「頭」と義理を守る温かい「心」を使い分けてもいたのです。
虚飾を嫌った行成の逸話
物事の本質を見つめ、媚びることをしない彼の真っ直ぐな性格が現われた、「独楽」と「扇子」の贈り物についての2つの逸話を『大鏡』からご紹介しましょう。
行成が献上したのは紐をつけた独楽。
「回してご覧なさいませ。おもしろいものですよ」
彼が勧めると、天皇はすぐにこの独楽だけを他の何より気に入り、そればかりで遊んだそうです。
一方、行成は漆を施した骨と模様が浮き出る黄色の唐紙のシンプルながら美しい扇子に、白楽天の漢詩を表と裏に楷書と草書で書いたものを献上しました。
他の扇を面白いと見ただけで終わる中、一条天皇は行成の扇子の表と裏を何度も交互に見比べ、手箱に入れて大切な宝物としたのです。
これらの話しは、虚飾にとらわれないまっすぐな行成の性格を示唆しているようです。
きょうのまとめ
今回は、藤原行成の生涯と生き方についてご紹介しました。
藤原行成とは
① 没落家系出身ながら真面目に宮廷に仕え、無官から蔵人頭に抜擢されて一条天皇と藤原道長に重用された能吏
② 権力におもねることなく中立を保ち、世話になった人物への義理や忠節を守った人物
③ まるで藤原道長の栄達を支え、彼の死に紛れる影のように生涯を終えた権大納言
でした。
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