系図で見る藤原行成と藤原道長、2人の境遇

 

藤原行成ふじわらのこうぜいは、平安中期に一条天皇と藤原道長の2人の立場の違った権力者たちからそれぞれ重用されたやり手官僚です。

権大納言にまで上り詰めた行成ですが、系図を見れば、彼の幼少時に起きた悲劇さえなければ、おそらく藤原道長を押さえて最高権力を握った可能性が高かったことがおわかり頂けるでしょう。

行成と道長。

系図を辿りながら2人を見比べてみましょう。

 

藤原行成 系図

『前賢故実』より
出典:Wikipedia

系図です。

赤字は、本文で登場する人物です。

系図

名門中の名門出身、藤原行成の華麗な系譜

平安時代に天皇の外戚関係を利用して権勢を振るった藤原氏の摂関家。

その中で天皇を補佐して権力を握った摂政・関白こそトップ中のトップです。

そしてその息子ほど次の摂政・関白に近い人物はいません。

藤原行成こそ、まさにそのポジションにあった人物でした。

素晴らしき祖父・藤原伊尹

藤原北家出身であり、藤氏長者の藤原伊尹ふじわらのこれただは、派手なことが好きで、和歌に優れた人物でした。

円融天皇の代に摂政と太政大臣に任じられ、朝廷権力のトップに立っています。

正確に言えば、行成はこの藤原伊尹の孫。

生まれてまもなくして彼はこの偉大な祖父の猶子つまり養子という形の息子となって、その輝かしい将来を期待されていました。

麗しき父・藤原義孝

藤原伊尹の3男もしくは4男とされるのが、藤原義孝ふじわらのよしたかです。

その美しい容貌で知られる歌人で、中古三十六歌仙の1人であり、彼の歌は百人一首にも選ばれています。

父親は摂政、顔はハンサム、歌のセンスも抜群という人も羨むような恵まれた人物・義孝が行成の実父でした。

 

行成一家の没落

非常に恵まれた境遇の元に誕生した行成でしたが、誕生してまもなくから彼の置かれた状況が大きく変わる出来事が相次ぎ、藤原氏の中における行成の家系の力が急速に衰えます。

972年に誕生した行成は、祖父・伊尹の猶子となってすぐにその祖父を亡くしてしまいます。

さらに2年後、父親の義孝までが急死。

数え年わずか3歳の行成は、彼の後ろ盾となってくれる最も重要な人物2人を立て続けに失ってしまったのです。

当時の貴族社会は、後見してくれる人物の力によって自分の地位や役職、出世までが大きく左右されるのが普通でした。

それを幼くして一挙に失った行成は、為す術もなく一家ごと没落の憂き目を見ることになるのです。

それでもその後の行成が活躍する素地を作ることが出来たのは、彼の外祖父・源保光による優れた学問・知識による教育のおかげです。

藤原道長一家の台頭

行成の一家が没落すると、藤原氏の中における権力の中心が移動しました。

藤原伊尹の兄弟・従弟の政権争い

行成の祖父・伊尹の死後、伊尹の弟たち藤原兼通ふじわらのかねみち兼家による政権争いとなります。

兼通が兼家を抑えて関白・太政大臣となった後、従弟の藤原頼忠ふじわらのよりただに地位が譲られますが、頼忠は天皇との外戚関係を作ることができませんでした。

そこで、ついに藤原兼家が摂政、関白そして太政大臣を務めたのです。

藤原兼家の嫡男・2男の不運と4男・道長の幸運

兼家は、嫡男の道隆に地位を譲って、兼家一家が摂関を世襲することを決定づけます。

これで、他の藤原氏が摂関を務めることが非常に難しくなります。

しかし、その道隆が5年ほどして病没、2男・道兼が代わりに関白になりますが、数日後に死亡の悲劇。

そんな不幸が続いた後についに4男の道長が登用されたのです。

系図を見ればわかりますが、行成の祖父である藤原伊尹は長男で、道長の父親である伊尹の弟・兼家は3男です。

本来ならば、藤原氏の中心は伊尹、義孝、行成という具合に嫡男にその権力が引き継がれていくところですが、行成一家の没落と兼家の権力争いや病没など不運や幸運が度重なり、結局藤原氏の中心が道長の家系へと動いていったわけです。

のち行成はその元々の家柄の良さと彼自身の才能と努力を見出され、朝廷での活躍の場を広げます。

決して協力体制にあったわけではない藤原道長が、それでも行成の能力を必要とし、行成はその期待に応えました。

 

藤原行成の子孫

行成は、生涯のうち3度妻を娶り、10人以上の子に恵まれたものの、多くの子を幼くして亡くしており、幼少期を生きた子にも早世した者がいました。

行成の子孫の失脚

行成の流れを汲んだのは、5男・行経、そして孫の伊房

彼らは公卿となりましたが、伊房はのちに密貿易を咎められて、失脚。

その後家系は中下級の公家となりました。

公家界の中心的書の家系として

しかし、鎌倉時代になって書家の一族として盛り返し、再び公卿に返り咲いています。

その後行成の子孫は、宮廷の書役として活躍。

行成が確立した和様の書の中心的役割を果たすようになります。

世尊寺家とその断絶

行成から数えて8代目の藤原行能ゆきよしからは世尊寺の家名を名乗り、家系は戦国時代の17代・世尊寺行季せそんじゆきすえまで続きます。

しかし、家系は行季の死をもって断絶し、途絶えてしまいました。

家系は途絶えてしまいましたが、藤原行成の書は今に伝えられており、代表的な作品は国の宝となっています。

バランスよい字形と流れるような筆遣いは、書を学ぶ者にとって無視することのできない貴重な財産として現代に続いているのです。

 

きょうのまとめ

今回は、平安中期に恵まれた家系の元に誕生しながらも不運によって没落した藤原行成の家系、入れ替わりに台頭していった藤原道長の家系についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 藤原行成は、もともと藤原氏一族の長である摂政と太政大臣を務めた藤原伊尹の直系の孫。名門中の名門の家系だった

② 行成の幼少期に祖父と父親を亡くしたことで、行成の家系は没落。政治的権力は藤原道長の家系へと移った

③ 行成の子孫はのち世尊寺家という高位の書家の家系として17代まで続いた後、断絶した

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku