無愛想な貴公子・藤原行成の性格に見つけた魅力

 

平安中期に活躍し、権大納言にまで出世した能吏のうり

藤原行成ふじわらのこうぜい

あの藤原道長と一条天皇の両方から重用されていた優秀な官僚です。

平安貴族らしからぬ性格が、不思議な魅力でもある人物でもありました。

そんな彼の性格にまつわる逸話をご紹介しましょう。

 

我が道を行く人

『前賢故実』より
出典:Wikipedia

藤原行成の祖父は円融天皇の摂政・太政大臣を務めた藤原伊尹ふじわらのこれまさです。

行成は大変血筋のよい家系に生まれた貴公子。

父親は、中古三十六歌仙の1人であり、美男で知られた右少将うしょうしょう藤原義孝ふじわらのよしたかでした。

そんな父と祖父を持つ行成が出世の登竜門である蔵人頭くろうどのとうの役に大抜擢された時、朝廷の女房たちは色めきたち、出仕する他の男たちも彼に注目したことでしょう。

しかし、彼はその期待を無造作に破壊します。

朝廷の女房たちは行成の態度にしらけた

藤原行成が抜擢された蔵人頭というのは、いずれ公家の中でもトップグループとなる「公卿」となることが約束されているような花形職です。

しかも行成の父親は、容姿秀麗な歌人・藤原義孝。

行成が、宮廷に仕える女官たちと話す機会も多いこの役職に就任した時、女房たちは若い貴公子がどれほど素敵な人物か注目していたはずです。

ところが。

清少納言による随筆『枕草子』には、女房たちによる行成評が記されています。

この君こそうたて見えにくけれ。こと人のやうに歌うたひ興じなどもせず、けすさまじなどそし

(「この行成の君って、付き合いにくい方。他の方のように歌を歌ったりもしないし、しらける人だわ」などと悪口を言う)

どうやら行成は、人間関係に無頓着な残念な貴公子。

気の利いた和歌で女性を楽しませるようなサービス精神は全く持たず、愛想が悪かったため女性たちには不人気だったようです。

職場の男たちをもしらけさせる行成

歌人の義孝を父に持った行成ですが、人々が期待するほど和歌に興味を持っていなかったのは本当でした。

ある時、職場で和歌談義が始まり、行成も意見を求められました。

しかし、彼は場の空気に一切配慮せず

「さあ、よくわかりません」

とだけ答えたのです。

おかげでその場はしらけてしまったそうです。

もう少し他に言い方はなかったのでしょうかね・・・?

 

合理的精神の人

おそらく非常に合理的な考えを持っていた行成は、和歌や詩の吟詠など、いかにも貴公子がやりそうな色男パフォーマンスには関心がなかったのです。

天皇にも道長にも評価された実務能力

しかし、行成は仕事の面においては実にデキる男でした。

蔵人頭とは、蔵人所くろうどどころの長官です。

天皇の側近であり、殿上人てんじょうびとたちを指揮する重要な役柄。

宮廷で一番の激務でした。

ちゃらちゃら貴公子ぶらない代わりに、職務には忠実だった行成は、身を粉にして働きました。

彼の不思議な点は、天皇の側近でありながら、当時絶大な権力を誇っていた藤原道長からも信頼をされていたところです。

政治的な立場の違う2人の最高権力者たちの間で、中立を保ちつつ非難されずに重要任務を任されます。

彼がおべっかに興味を示さず、裏表なく仕事を遂行する点を評価されたのかもしれません。

仕事がデキすぎて出世できなかった行成

995年に花の蔵人頭になった行成でしたが、その先はなかなか出世しませんでした。

理由は仕事がデキすぎるから。

彼の代わりをする者がいなかったのです。

有能な行成を手放したくなかった一条天皇は、行成から提出された蔵人頭の辞任を何度か却下しています。

結局、1001年にようやく蔵人頭の任務から解かれた行成は、晴れて参議への昇任がかないました。

最終的には、正二位権大納言の高位にまで昇進しています。

 

忍耐を知る人

鎌倉時代に成立した逸話集『十訓抄じっきんしょう』には、行成の別の側面が紹介されています。

行成はある日殿上で、美男で優れた歌人・藤原実方と歌について口論となった。

すると、怒った実方が行成の冠を投げ捨ててしまった。

しかし、行成は取り乱さず、冠を拾わせて事を荒立てなかったので、その様子を見ていた一条天皇が行成の態度にいたく感心した

というものです。

当時、冠の下の頭部を見られることはかなり恥ずかしいことでした。

実方の行動はひどく礼を欠き、暴力的なもの。

対して、行成の取った大人の態度は素晴らしいものでした。

創作の可能性が高い逸話ではありますが、おそらく行成本来の冷静で我慢強い性格を反映したものなのでしょう。

 

几帳面の人

三蹟として知られる能筆家・藤原行成が書跡以外に残したものの中で、文化的・歴史学的に大変貴重なものが他にもあります。

それが権記ごんきです。

『権記』とは権大納言にまでなった行成の彼の日々の仕事の詳細を綴った日記です。

儀式の進め方、当時全盛期だった藤原道長の政務運営や絶大な権力の裏での工作などが詳細に記録されています。

途中途切れる部分もありますが、991年から約35年の記録は、同時代の日記である

・藤原実資さねすけの『小右記』

・藤原道長の『御堂関白記』

に並ぶ第一級史料となっています。

黙々と長く詳細な記録を取り続けた行成が、几帳面な性格であったことは間違いありません。

 

実は義理と礼を知る人

さて、藤原行成が出世街道を進むためのきっかけとなったのは、12歳年下の彼を蔵人頭に大抜擢した、源俊賢みなもとのとしかたのおかげです。

行成はその恩を忘れませんでした。

その後も昇進を続けた行成は、先輩の俊賢を差し置いて高位に就いた時にも、決して彼の上座に座ることはありませんでした。

俊賢が出仕する日は病気と称して出仕せず、どうしても双方の出仕が重なる日には、向かい合わせの席に着座したのだそう。

年の差はありましたが、よき友人でもあった2人です。

行成が、心の広い先輩に対する敬意と恩を忘れない義理がたい人物だったことを示すこのエピソードは、歴史物語『大鏡』に残されています。

 

きょうのまとめ

今回は、逸話とともに平安時代の能吏・藤原行成の性格についてご紹介しました。

無愛想だけど、やり手の貴公子。

そんな藤原行成の性格を簡単にまとめると、

① 対人関係では、愛想がなく、我が道を行く変わり者タイプ

② 職務では合理的で実務能力に長けた

③ 几帳面さと忍耐強さがあった

④ 実は義理固い

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku