歴史を動かした武田信玄の死因と長篠の戦い

 

武田信玄は、圧倒的な戦上手を武器に、領土を拡大。

そして上洛の野望を果たすべく西進します。

しかし信玄はその途上、死去することになります。

戦国時代を動かす軸の一つとなっていた武田信玄の死去。

その後行われた長篠の戦いの勝敗。

この二つが、歴史を大きく展開させることになるのです。

 

武田信玄の死因

時代に大きな存在感と影響力を持っていた武田信玄は、

西進の半ばで死去することになるのですが、その死因は何だったのでしょうか。

さまざまな説が存在するのですが、主なものは次の3つです。

・負傷した傷の悪化

・暗殺

・病気

負傷した傷の悪化

武田信玄は、上洛を目指し、目下の敵である徳川家康を討つべく三河街道を進軍します。

その道中に負傷し、甲斐へ引き返しているときに死去したとされる説があります。

戦で負傷し、それが致命傷だったためそれを周囲に隠し、

自らの死をしばらく周囲には伏せておくように命じながら死んでいく……。

劇的で、「軍神」とまで呼ばれた武将の死にふさわしい最後と言えます。

しかし、史実においてこのように書かれているものはありません。

後世において創作されたものと言えるでしょう。

暗殺

「まともに対峙して、圧倒的な力の差に勝機を見出せない時、

その強さの元を消してしまえば、軍は崩壊する。」

暗殺を企てるというのは、太古の昔から行われてきた方法の一つです。

当時、他の勢力を圧倒していた武田軍の強さは信玄あってのものとされ、

この策が採用されたと考えるのはあり得ることでしょう。

笛の音に聞き入るあまり、敵城に近づきすぎた信玄は銃で撃たれ負傷

その傷が悪化して死去したという説も存在はしているのですが、

やはり根拠がなく、後世の創作と考えるのが妥当です。

病死

52歳となっていた武田信玄は、

当時としては老齢の域に達していたと言えるでしょう。

年を取るごとに病にかかるリスクも高くなり、

武田信玄もかくの病」を発症していたとされています。

膈の病とは、 飲食物が胸に詰まりうまく消化できない病気で、症状としては胃癌に近いとされ、

この病が悪化して信玄は死去したという説が有力です。

死後、その事実を3年間隠すように信玄に命じられた親族・重臣は、それをしっかり守り通しています。

このことからこの遺言は信憑性があり、信玄は自らの死期を悟っていたことが読み取れるのではないでしょうか。

事実、医師でもあった武将、御宿みしゅく友綱ともつな板坂いたざか法印ほういんと治療にあたり、

その診断を記した書物が見つかっています。

 

長篠の戦い

信玄の死で、上洛への野望は頓挫し、

本国へ撤兵せざるを得なくなった武田軍。

織田信長は足利義昭を京から追放して、天下人としての地位を引き継ぐことになります。

武田軍の撤兵に伴い、徳川家康は三河・遠江の失地回復をするため動きます。

対して信玄の後継となった武田勝頼は、再度侵攻を試み信長・家康連合軍と長篠・設楽原において激突することになります。

この戦いは色々な意味において、歴史の転回点となった戦です。

当時最強と言われた騎馬軍団率いる1万5千の武田軍を、

強力な鉄砲隊を擁する3万8千の織田・徳川連合軍が迎え撃つという形を取ります。

中世的な戦術近代的な戦術とが対峙する形です。

実際、鉄砲隊を武田騎馬軍団を打ち砕く最大の武器に据えていた信長は、馬防柵を設けて野戦築城の構えを取り、

当時としては革新的な布陣を展開して、圧倒的な火力を見せつけます。

この長篠の戦いで織田・徳川方には、主だった武将に戦死者がなかったのに対し、

武田方は譜代家老、重臣、指揮官が戦死し、甚大な被害を出し勝頼はわずか数百人に守られながら帰国することになります。

帰国後、外交でなんとか難局を乗り切ろうとしますが、

織田・徳川との和睦はならず、

本格的侵攻によって武田家は滅びることになります。

 

信玄と勝頼の差

「孫子の兵法」を体現したともいえる信玄は、

戦う前に勝つための下地を、外交や調略で作ってから戦ったから強かったのです。

まさに「勝つべくして勝つ」といえます。

織田信長が長篠・設楽に到着したことを知った時、武田四名臣と言われる重鎮が、勝頼に撤退を進言したのは、

近くで亡き信玄の手腕を見ており、勝頼にはその入念な根回しがなかったことを危ぶんだからではないでしょうか。

さらに近代的な思考を持つ織田信長が、常識を覆す戦い方を導入してきたことで、圧倒的な差で勝敗が決まることになるのです。

これは、中世的な勢力を近代的な勢力が破り、それを中心とした統一国家を志向する出発点ともなったといえるでしょう。

 

きょうのまとめ

武田信玄の死因と、その死がもたらした事柄をまとめてみましょう。

① 信玄の死因は病死とするのが妥当

② 長篠の戦いで武田家は滅亡へと向かう

軍神とまで言われた武田信玄でしたが、年齢と病には勝てなかったといえるでしょう。

その存在の大きさに比例し信玄の死後、

武田家が瓦解していくスピードも速かったといえます。

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