夫である天武天皇に先立たれた妻が即位した天皇の座。
明日香の地で玉座に座った女性天皇の
持統天皇とは、どんな人物だったのでしょうか。
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持統天皇はどんな人?
- 出身地;摂津国(現大阪)
- 生年月日;645年
- 死亡年月日;703年1月13日(享年58歳)
- 夫である天武天皇の政策を引き継ぎ、藤原京遷都と飛鳥浄御原令制定を行った女性天皇
持統天皇 年表
西暦(年齢)
645年(1歳)鸕野讃良皇女誕生
657年(13歳)大海人皇子(のちの天武天皇)に嫁ぐ
662年(18歳)草壁皇子を産む
671年(27歳)壬申の乱
673年(29歳)大海人皇子が天武天皇となり、鸕野讃良皇女が皇后となる
679年(35歳)天武天皇、皇后、6人の皇子が吉野の盟約を交わす
681年(37歳)天武天皇は律令の編纂開始
686年(42歳)天武天皇崩御
689年(45歳)
皇太子草壁皇子死去
鸕野讃良皇女が即位し持統天皇となる
飛鳥浄御原令を発する
694年(50歳)藤原京遷都
697年(53歳)譲位、太上天皇(上皇)となる。軽皇子が文武天皇に即位する
701年(57歳)大宝律令
702年(58歳)崩御
持統天皇はつまり何をしたか
持統天皇は天皇即位前、在位中、そして譲位してからも太上天皇(上皇)として数多くの重要な政策を実行した女性天皇です。
いろんな立場から政策に深く関わっていました。
・大海人皇子(のちの天武天皇)が決起した壬申の乱の計画にかかわる
・天武天皇とは仲睦まじく、天武天皇の即位後は皇后として天皇をサポートし、政治に関与した
・実子である草壁皇子への謀反の罪で、ライバルであり人望のある甥の大津皇子を死へと追いやる
・若く実務経験のない実子の草壁皇子を皇太子に推した。
・草壁皇子が早世すると孫の軽皇子が成長するまでのつなぎとして自らが天皇即位した
・軽皇子を文武天皇に即位させ、自らは太上天皇(上皇)として共同で政務を執った
・天武天皇の念願だった藤原京遷都、飛鳥浄御原令の2大事業を引き継ぎ、完了させた。
・太上天皇となった後も文武天皇の名の下に大宝律令を制定した
天武天皇から事業を引き継いだ持統天皇の実情
天武天皇が生前になし得なかった事業を次々と実現させていった持統天皇。
夫婦愛の深いけなげな妻といったイメージを持ちますか?
いえいえ、持統天皇はただそれだけのために事業を実行したわけではないのです。
「天武天皇の意思を受け継いだ事業」の本当の意味
多くの事業を継承したのには、夫の遺志を引き継ぐ、という意味以上に、もう一つの事情がありました。
・飛鳥浄御原令の制定
・神宮式年遷宮の実現
・強い武力を持った国家づくり
・歴史編纂事業
・戸籍の作成
これらは、「私はあの素晴らしい天武天皇の念願だったことを継承・実行しているんですよ」と天武天皇の名前の元に人々の賛同・協力をあおいで実行されたのです。
持統天皇は天武天皇には自然に備わっていたカリスマ性・信頼・人気が自分にないことを自覚していました。
だからこそ、
・吉野への行幸をはじめ、天武天皇ゆかりの地へ出掛けて天武時代の権威を人々に再確認させた上、地方豪族たちに藤原京の造営への協力をさせた
・天武天皇が生前に造営し始めていた大和国の薬師寺を完成させ、勅願寺(天皇・上皇の発願によって創建された寺)とした
など、天武天皇の後継者であると、自らの政務に天武天皇の名前を有効利用する努力をし続けたのです。
譲位してもなお孫と共に政治を
持統天皇は697年に15歳の軽皇子に譲位しました。
文武天皇の誕生です。
持統天皇は太上天皇(上皇)になり、その後も文武天皇をサポートして政務を執りました。
文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行です。
これは実は持統天皇の意思が強く関わっていたと考えられます。
その後も持統天皇は長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらうなど、天武天皇の威光を文武天皇に繋げるような努力を行っています。
そして702年、持統天皇は58歳にて崩御。
のちに天皇として初めて火葬され、天武天皇陵(奈良・野口王墓)に合葬されました。
きょうのまとめ
女性天皇だったからといって、陰謀や謀りごとと無縁ではなかった持統天皇。
持統天皇とは、
① 天武天皇強くサポートした妻
② 天武天皇と自分の血を引く天皇家を守ろうとした皇后
③ 天武天皇の権威を借りることで地位を確保し、事業を実行した女性天皇
でした。
自分の立場を理解して政治を執った、実行力と頭脳を持った人物でした。
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