歴史上の人物の中でも、特に藤原清衡を含む奥州藤原氏4代の死因や生前の健康状態については具体的に調査されています。
なぜなら、彼らの遺骸がミイラとして千年近い年月を越えて現代に伝わっているからです。
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ミイラ調査
おそらく日本で一番有名なミイラが奥州藤原氏4代のミイラでしょう。
藤原清衡、基衡、秀衡の3代の遺体、そして4代目の泰衡の首(頭部)が全て岩手県平泉の中尊寺に保管されています。
1950年の金色堂補修工事の際に、人類学者で東北帝国大学名誉教授の長谷部言人氏を団長として調査団が組織されました。
調査対象は、中尊寺金色堂の須弥壇に納められていた奥州藤原氏4代のミイラ化した遺体と頭部。
朝日新聞社がスポンサーとなり、
・法医学
・医学
・微生物学
・植物学
・理化学
・保存科学
・古代史学
などの分野の専門家が集結して調査を実施しました。
専門調査による新発見
中尊寺には、これらの遺体について寺伝として伝えられていることがありました。
1950年の調査では、以下のように伝承をくつがえした点が注目されます。
遺体
金色堂の3つある須弥壇「中央檀」「左檀」「右檀」(本尊からみた場合)に安置されていた遺体は、それぞれ清衡、秀衡、基衡であり、秀衡と基衡の遺体は寺伝とは逆である可能性が高い。
【その理由】
遺体を納めていた木棺の装飾技術の進歩具合による古さの順番や副葬品の内容で判断された。
頭部
頭部は寺伝では忠衡だったが、実際は泰衡の首である。
【その理由】
首に残っていた16箇所にものぼる切られた傷や刺された傷、そして眉間近くから後頭部にかけて直径約1cmに開けられた穴によって判断された。
この頭部の穴は約24cmの長さの八寸釘によって打ち付けられ、さらし首にされた傷であり、記録にのこる泰衡の首に対する処置と傷が一致するため。
藤原4代の遺体の状態と藤原清衡の死因など
そもそもどうしてミイラが作られたのか、ミイラから何かわかったことがあるのか、それが気になるところです。
調査によって清衡の生前の健康状態や死因など推測がついたことや、未だに論議が交わされる謎もクローズアップされました。
自然ミイラか人工ミイラか
これらのミイラが自然にミイラとなったものか、人工的に作られたものかについてはまだ明確な解答は得られず、論議は続いています。
それぞれの主張にはそれなりの論拠があり、判断は難しそうです。
・地域的に近いアイヌのミイラ作りと違って遺体に切開した跡がなく、ミイラの体内に内臓が残っている。
・遺体をミイラにして仏堂に祀るような事例が同時代に他に見られない。
・上記に加え、密封された棺を高い位置に安置したために偶発的にミイラとなった。
・例えば、水銀系の防腐剤注入など当時の奥州でも可能な防腐処理が行われた可能性がある。
などそれぞれの根拠があります。
清衡のミイラが語ること
ミイラ調査によって明らかになった藤原清衡の身体的特徴や死因について判明したのが以下の点です。
・頬骨が出た比較的短い顔。鼻筋が通っている
・身長159cm
・手は小さく華奢。両手両脚の筋肉は発達しており、やせ形
・レントゲン検査によって、左半身の顕著な骨萎縮が発見された。脳出血、脳血栓、脳腫瘍などによる半身不随だったと見られる
・死因は脳溢血またはそれに類する疾患と考えられる
・歯の状態から没年齢は70歳以上。これは史料の没年齢の正しさを証明(清衡の没年齢は73歳とされる)
・4代揃ったミイラは、清衡から曾孫の泰衡まで直系であることに矛盾がない
この調査からかなりのことが判明しました。
きょうのまとめ
今回は、中尊寺金色堂に残された藤原清衡のミイラの死因を含めた調査結果をご紹介いたしました。
簡単なまとめ
①中尊寺金色堂は奥州藤原氏4代のミイラが残されており、専門家による調査が行われた
②人工的に作られたミイラか自然発生的ミイラかはまだ判明していない
③藤原清衡は脳疾患により半身不随で生活しており、脳溢血などによって死亡した可能性がある
歴史書に残された清衡の死亡年が遺体の推定年齢とほぼ一致するなど、朽ち果てた遺体であっても、その実物が史料と一致して現代に伝える事実はとても意義深いものですね。
時を越えて藤原清衡の身体が私たちに語った事実です。
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