後醍醐天皇は、まさに不屈の精神を持っていた人物。
倒幕計画が発覚し、隠岐島に流されるも脱出。
そして、鎌倉幕府を倒すきっかけをつくりました。
そこで今回は、後醍醐天皇の隠岐島での暮らしぶりなどについて簡単に紹介していきます。
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そもそも隠岐島とは?
隠岐島(隠岐諸島)とは、日本海に浮かぶ島々のこと。
大きく「島前」「島後」、その他の小島に分けることができます。
現在の島根県北東部に位置しており、かつては隠岐国と呼ばれていました。
そんな隠岐は、古くから「遠流の地」であったことでも有名です。
例えば平安時代の貴族として有名な小野篁も、一時は隠岐に流されています。
また承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇も、隠岐に流されてその生涯を閉じました。
後醍醐天皇は隠岐島でどんな暮らしをしていた?
そして1332年の春、後醍醐天皇は倒幕計画が失敗して隠岐島に流されることになりました。
後醍醐天皇がおよそ1年間の流人生活を送った地としては、下記の二つの説があります。
- 島前・西ノ島にある黒木神社(=黒木御所)
- 島後にある国分寺
黒木とは皮を削っていない丸太という意味です。
このことから、隠岐島では粗末な場所での生活を余儀なくされていたことが想像できます。
そういった環境の中で、後醍醐天皇は厳しい監視にさらされて過ごしていました。
京都では、何不自由なく暮らしていた後醍醐天皇。
普通に考えると、心が折れてしまうのではないでしょうか。
なぜ脱出したのか?
しかし天皇が隠岐に流されてから8カ月後、息子・護良親王(建武の新政では征夷大将軍になった人物。後醍醐天皇の第1皇子。)が吉野で挙兵します。
すると、鎌倉幕府に不満を抱えていた武士たちもが戦い始めたのです。
さらに後醍醐天皇を監視していた者の中にも、味方になる人間が現れました。
こうして後醍醐天皇は、隠岐脱出を決意。
夜中に御所を抜け出し、無事に隠岐島を脱出することに成功したのでした。
きょうのまとめ
今回は後醍醐天皇と隠岐島について、簡単に紹介しました。
② 隠岐での後醍醐天皇は粗末な御所で暮らし、厳しい監視を受けていた
③ 護良親王の挙兵で状況が大きく変わり、脱出を決意した
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってください。
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