日本を代表する観光地・京都。
794年に平安京が遷都されてから約千年間、日本の都でした。
平安京に都を遷した桓武天皇は、まさに京都の生みの親といえます。
それでは、桓武天皇とはどんな人物だったのでしょうか。
今回は、意外と知らない桓武天皇の山あり谷ありの生涯について、ご紹介していきますね。
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桓武天皇はどんな人?
- 出身地;?(現在の京都と推測される)
- 生年月日:737年
- 死亡年月日:806年3月17日(享年70歳)
- 第50代天皇。平安京遷都や蝦夷征討などを行ったことで有名。
桓武天皇年表
西暦(年齢)
737年(1歳)誕生
773年(37歳)皇太子となる。
781年(45歳)即位
784年(48歳)長岡京遷都
785年(49歳)藤原種継暗殺事件で早良親王が廃太子に。
789年(53歳)紀古佐美が阿弖流為の軍に大敗する。
792年(56歳)健児の制
794年(58歳)平安京遷都
795年(59歳)公出挙を3割減、雑徭半減
797年(61歳)勘解由使の設置。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命する。
801年(65歳)畿内の班田を12年にする。
802年(66歳)坂上田村麻呂が胆沢城を築く。
803年(67歳)坂上田村麻呂が志波城を築く。
805年(69歳)徳政相論により平安京造営・蝦夷征討を中止する。
806年(70歳)崩御
桓武天皇の生涯簡単まとめ
桓武天皇は、光仁天皇と渡来系氏族出身・高野新笠の子として誕生しました。
即位する前の名は、山部親王といいます。
光仁天皇の第1皇子でしたが、母親の家柄が低いという理由で、皇太子にはなれませんでした。
そのため山部親王は、官僚としての人生を長く送っていたのです。
45歳にして即位
しかし異母兄弟で皇太子であった他戸親王が母の罪に連座(※1)し、
皇族の身分を廃されるということが起こりました。
そのため桓武天皇は37歳にして皇太子に、そして45歳にして即位することになったのです。
二大事業・遷都と蝦夷征討
784年、桓武天皇は長岡京へと都を遷しました。
しかし早良親王の祟りなどを恐れ、794年に平安へと遷都しています。
遷都の経緯は下記の記事をご覧ください。
関連記事 >>>> 「桓武天皇が平安京に遷都した理由は怨霊にビビったからだった!」
また桓武天皇といえば、蝦夷(※2)との戦いです。
もちろん桓武天皇が即位する前から、戦いは行われていました。
ただ遷都と蝦夷討伐は、桓武朝の二大事業とされています。
797年に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、胆沢城を築き、
蝦夷の首領・阿弖流為を降伏させています。
その後も蝦夷征討の計画・準備が進められていました。
しかし二大事業は、国家財政の大きな負担となっていました。
そこで徳政相論(※3)が行われ、蝦夷征討と平安京の造営は中止されることになります。
その翌年、桓武天皇は病によって亡くなりました。
京都の生みの親は今でも平安神宮の御祭神として、多くの人たちから敬愛を受け続けています。
桓武天皇にまつわるエピソードや伝説
それでは上記でご紹介できなかった、桓武天皇にまつわる逸話をご紹介していきますね。
京都・へそ石の伝説
平安京造営の際には、こんな伝説も生まれています。
京都・頂法寺(六角堂)(※4)にある「へそ石」をご存じでしょうか。
京都の中心ともいわれるへそ石は、もともと本堂の礎石だったそうです。
平安京造営の際、その本堂が邪魔になり、道を造ることができなくなっていました。
そこで桓武天皇が「南北どちらかに少し移動されたい」と願ったところ、空が曇り、
勝手にお堂が少しだけ北にずれてくれたと伝えられています。
すると無事、六角小路を通すことができました。
そして現在の「へそ石」は、お堂が動いてくれたとき、1個だけ元の場所に置き忘れてしまったものといわれています。
おっちょこちょいですねぇ!
実際には一つだけ移動できなかった、何らかの事情があったものと推測できます。
死の直前まで祟りを気にかけていた?
桓武天皇が平安京に遷都した理由の一つとして、早良親王の怨霊を恐れたというのが定説としてあります。
詳しくは下記をお読みになってくださいね。
関連記事 >>>> 「桓武天皇が平安京に遷都した理由は怨霊にビビったからだった!」
桓武天皇は死ぬ直前にも、藤原種継暗殺事件に関わった人物の名誉を回復していました。
藤原種継暗殺事件とは上の記事でも書きましたが、長岡京造営使の藤原種継が射殺された事件のこと。
この事件は桓武天皇を退位させ、皇太子の早良親王を即位させようとしたクーデター計画の一環だったとみられています。
首謀者は当時すでに亡くなっていた大伴家持とされ、
大伴氏を中心に死罪8名・流罪6名を出して、一応の決着をみました。
その後、桓武天皇は無念の死を遂げた早良親王に「祟道天皇」という尊号を贈ったことでも知られています。
しかし桓武天皇は自身が亡くなる直前にも、事件で処分された皇族の五百枝王や大伴氏一族らの名誉を回復していました。
さらに早良親王に読経をほどこした直後、崩御したと伝えられています。
最期まで祟りを恐れていたのでしょうか、それとも自責の念だったのでしょうか……。
関連記事 >>>> 「桓武天皇陵の場所はどこ?豊臣秀吉が潰していたという説も」
きょうのまとめ
今回は桓武天皇の生涯について、簡単にご紹介しました。
桓武天皇とは?
① 皇位継承の可能性はかなり低く、官僚として生きてきたが45歳で即位した
② 二大政策(遷都と蝦夷征討)を推し進めたが、徳政相論で中止する決断をした
③ 死ぬ直前まで祟りを恐れていたかもしれない
こちらのサイトでは他にも、平安時代に活躍した人物についてわかりやすく書いています。
より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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