日本広くに甘藷(サツマイモのこと)の栽培を普及し、
後世に何千万何億という人の飢えと暮らしと命を救った江戸時代の偉人
青木昆陽。
その人が眠る墓のあるのは東京”目黒不動尊”こと
瀧泉寺
今回はその古式ゆかしく、
かつ、何度とない時代の節目に大きくかかわり、
そして、いろんな人々に親しまれ続けた名刹を紹介します。
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瀧泉寺開山縁起
その開基は大同3年(西暦808年)と伝えられます。
平安京に遷都して間もなくのことですね。
開いたのは慈覚大師円仁。
松尾芭蕉の”山寺”で紹介した
立石寺(山形県山形市にある)を開いたのと同じお坊さんです。
この人は下野国(今の栃木県)出身。
彼が15才の時、伝教大師最澄が比叡山を開いたという話を聞きました。
円仁はもういてもたってもいられなかったのか、
すぐにそちらへと向かったといわれます。
そんな旅の途中、今の瀧泉寺のある場所に立ち寄りました。
そこで、不思議な夢を見ます。
顔が青黒く、右手には降魔の剣をかかげ、左手にはしばり縄を持った異形の神様が現れ、
円仁は目が覚めると、そのお姿を木に彫り込んだのが今の瀧泉寺のご本尊
目黒不動明王です。
やがて、円仁はここにお寺を建てることを決意し、
獨古(どっこ。とくこ。仏教の儀式で使われる道具の一つ。独特のデザインがほどこされた棒状のもの)
を投げると、
落ちたところから泉が湧き出したことから、
瀧泉寺
と名づけられました。
今、その泉は
「独鈷の滝」
と呼ばれ、本堂にあります。
なんでも、今まで一度も枯れたことがないとのことです。
あの徳川将軍が復興・支援
さて、徳川による江戸開府から間もなく、
1615年火事があって不幸にもこのお寺は焼け落ちてしまいました。
しかし、そこに手を差し伸べた人がいます。
徳川3代将軍家光です。
家光は祖父の家康のことをものすごく尊敬しておりました。
そして、家康の好きだった鷹狩もよくおこなっていたようです。
そんなある時、いつものように鷹狩にいそしんでいると、鷹がいなくなってしまいました。
家光はこまって目黒不動尊にお祈りをすると、
たちまちその鷹が本堂の松に飛んできたといいます。
そんなご恩に報いようとしたのか、家光はお寺を復興するだけでなく、さらに手厚い支援をし、やがて江戸一番の名所とまでなりました。
瀧泉寺の周辺は寺町。
「目黒の羅漢さん」
こと五百羅漢寺や、成就院たこ薬師など、
縁起ご利益様々な神社仏閣がいくつも建っています。
当時目黒名産のタケノコ飯や、棒状のねり飴をトントンと包丁で刻んだ目黒飴など、
28日の縁日にはそれはたいそうな盛況だったことでしょう(今もたいそうな盛況ぶりですよ!)。
青木昆陽と瀧泉寺
青木昆陽の墓は瀧泉寺の本堂裏手を右に進んだ飛び地境内の墓地にあります。
なんでも、この近くに昆陽の別宅があったとのこと。
昆陽もそんなにぎわいの中に、どこかで身をひたしていたのかもしれません。
そして瀧泉寺では、毎年10月28日に
「甘藷祭り」
が開かれ、
昆陽のそのあまりにもの遺徳を感謝とともにたたえ、
イモや花を供える法要が営まれます。
また、境内辺りにはたくさんの露店が出て、いろんなイモ料理を味わうこともできます。
甘藷先生ありがとう!!
ほかにもあの偉人もこの偉人も参拝
そして、この寺には幕末のあの英雄もお世話になっております。
せごどんこと
西郷隆盛です。
西郷が尊敬してやまないあの島津藩主斉彬公が病に落ちた時、
西郷はここで病気が治るようにとお願いしたようです。
そして、江戸後期の「立て直しのレジェンド」
あの二宮尊徳や、
日本海海戦前には連合艦隊司令長官東郷平八郎も
そのことの成就を祈り、参拝しているとのこと。
わたしもあやかりたくなります。
きょうのまとめ
寺町や寺内町、門前町の多くは日本古来の風情がたっぷり。
ゆかしさと、にぎやかさと、やすらぎと、転々と訪ね歩きたくなりますね。
① 瀧泉寺の開基は平安初期天台宗の名僧慈覚大師円仁
② 瀧泉寺では毎年10月28日に青木昆陽の遺徳をたたえ、「甘藷祭り」が開催される
③ 瀧泉寺は徳川家光、西郷隆盛、二宮尊徳、東郷平八郎など、歴史に偉業を残した英雄たちとのゆかりがいっぱい
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魔をおさえ、国をしずめようと思う。
ここに来る者たちの願いを成就させよう