実は杉田玄白をこえる功労者!?ちょっと変わったこだわりグセの仲間「前野良沢」

 

2018年元旦、◇HKの時代劇ドラマの主人公は前野良沢だったようです。

しかも、三谷幸喜さん脚本。

片岡愛之助さん主演です。

元旦から前野良沢だなんて◇HKもずいぶん攻めるなあ。

と思われるかもしれません。

確かに、
一見すると杉田玄白の陰に隠れているイメージがあります。

でも、実は……?

そのちょっと不思議な男の素性を探ってまいりましょう。

 

前野良沢はどんな人?

プロフィール
前野良沢

前野良沢
出典:Wikipedia

  • 出身地:おそらく江戸(今の東京)
  • 生年月日:1723年
  • 死亡年月日:1803年(享年80才)
  • 江戸後期の蘭方医。『解体新書』を杉田玄白らとともに編纂へんさんした。
  •  

    前野良沢の年表

    年表

    1723年(0才)前野良沢生まれる

    1748年(15才)前野良沢、中津藩医となる

    1743年(20才)前野良沢、蘭学を志す

    1774年(51才)杉田玄白ら、『解体新書』を刊行する

    1803年(80才)前野良沢、亡くなる

     

    「流行りものより、すたれたものを」前野良沢のこだわり癖の始まり

    前野良沢は筑前中津藩(今の福岡県西北部)のお侍さんの息子として生まれました。

    ただ気の毒なことに、幼くして両親を亡くしてしまいます。

    そこで、親類の淀藩(今の京都市伏見区淀本町)の医者宮田全沢に養われることになります。

    この宮田全沢という人、

    大変に博学ですが、

    一方で、ちょっと変わりものだったようです。

    「世の中には捨ててしまうと絶えてしまうものがある。

    流行りものはどうでもいいから、

    すたれてしまいそうなものを習い覚えて、

    後の世に残すよう心がけなさい」

    と良沢に教えていたようです。

    その影響は多分にあったのでしょう。

    良沢は中津藩医になる一方、

    一節切ひとよぎりという伝統楽器を練習しました。

    もうこの時代、

    この楽器はかなりすたれていて、

    奏でる人もほとんどいませんでした。

    ただ、良沢の腕前はその秘曲を極めるほどだったといいます。

     

    衝撃!『ターヘル・アナトミア』との出会い

    前野良沢20才の時、

    彼の人生にとって一つの大きなきっかけが訪れました。

    ある知人からオランダ語の書いた切れ端を見せられます。

    きっとちんぷんかんぷんだったのでしょう。

    が、 

    「国が異なり、言葉がちがっても同じ人間なのだから理解できないこともない」

    と、一念発起!

    蘭学を志します。

    甘藷かんしょ(サツマイモのこと)の研究で有名な蘭学者青木昆陽を先生にし、

    46才の時には長崎に留学いたします。

    そんな最中に手に入れたのが、ドイツ人医師が書いたオランダ翻訳書

    『ターヘル・アナトミア』

    です。

    前野良沢と『解体新書』

    早速、刑場の腑落ちふおち(解剖)へ、

    蘭学仲間の杉田玄白、中川淳庵らと連れ立って訪れ、

    『ターヘル・アナトミア』に書かれていることと見比べてみました。

    すると、

    そのあまりにもの正確さ!

    「こんな素晴らしい書物は日本語に訳し、世に役立てねばならないだろう」

    と、決意同じく、早速みんなで翻訳の仕事に打ちこみはじめます。

    ちなみにメンバーの中で一番オランダ語ができるのは良沢です。

    しかし、まあ基礎程度です。

    ほかの淳庵や玄白などにいたってはさっぱりダメです。

    それでも体当たりと感覚を頼りに、着々と作業を進めてゆきました。

    こんなわけですので

    『解体新書』への翻訳自体についてだと、

    最も功績のあったのは良沢だろう、

    といわれるのもうなづけます。

    そんなある時、

    のっぴきならない衝突がついに起こってしまいます。

    杉田玄白が編纂中の『解体新書』を、完成品として世に示そうとしたのです。

    しかし、良沢には納得がいきませんでした。

    「ダメダメ!まだアレは間違いだらけだ」

    しかし、玄白も譲りません。

    結局、良沢は折れます。

    が、玄白にひとつ注文を付けました。

    「『解体新書』の編者の名に私を入れるな」

    玄白はどういう思いでこれを受け入れたのでしょうか?

    こうして『解体新書』は世に示され、

    その後、この国の医学や翻訳など多方面に大変な影響を与えてゆくのです。

    玄白はそういった辺りを見越せたのでしょうか?

    ただ、良沢のこだわりもわかる気がします。

    現実と理想の真逆のコンビがうまくはまると、ものすごい力となることは歴史にはままあることです。

    良沢はその後、いよいよオランダ語研究にのめりこみ、

    藩の仕事にも怠慢が目立つようになってゆきました。

    それでも藩主奥平昌鹿まさしか

    「日々の治療も仕事だが、その治療のために天下後世の民に有益なことを成そうとするのも仕事である」

    と、言って取り合わなかったようです。

    昌鹿は良沢のことを「蘭学の化け物」と褒め、良沢もこれを誉れと、自分を「蘭化」と号すようになりました。

     

    きょうのまとめ

    良沢の名が世間に知れるようになったのは幕末、福沢諭吉らが玄白の回顧録『蘭学事始』を刊行してからのことです。

    ① 前野良沢は「流行りものよりすたれたものを大事にしろ」と師に諭された

    ② 前野良沢は『解体新書』のできにまだ納得していなかった

    ③ 前野良沢は『解体新書』の編者の名に自分を入れないように、と玄白に訴えた

     

    杉田玄白の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
    関連記事 >>>> 「杉田玄白とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】」

     

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