コナン・ドイルとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

代表作「シャーロック・ホームズ」シリーズが大ベストセラーとなり、

現代まで続くミステリー作品の基礎を築いた作家、

コナン・ドイル

そんな彼は小説家としてだけでなく、医者や政治活動家としての顔も持っていました。

コナン・ドイルとは一体どんな人物だったのでしょうか。

今回は彼の生涯について、その功績と共にご紹介していきます。

 

コナン・ドイルはどんな人?

プロフィール
アーサー・コナン・ドイル

アーサー・コナン・ドイル
出典:Wikipedia

  • 出身地:イギリス エディンバラ
  • 生年月日:1859年5月22日
  • 死亡年月日:1930年7月7日(享年71歳)
  • イギリス人の作家。医者。政治活動家。現代まで続くミステリー作品の基礎をつくった。

 

コナン・ドイル 年表

年表

西暦(年齢)

1859年(0歳)イギリスのエディンバラ、ピカディ・プレイスで誕生。

1868年(9歳)ランカシャーにある寄宿学校、ホダー学院に入学。

1870年(11歳)上級学校ストーニーハースト・カレッジに進学。

1875年(16歳)ドイツ語の勉強を兼ね、オーストリアの学校に留学。

1876年(17歳)エディンバラ大学医学部に進学。

1879年(20歳)短編小説『ササッサ谷の秘密』を執筆。

1880年(21歳)船医見習いになり北極海へ同行する。翌年には医師の資格を取得し、アフリカ行の船の船医になる。

1882年(23歳)ポーツマス市サウスシーのエルム・グローブ街で医院を開設。この頃から患者を待つ間、副業として執筆活動をするようになる。

1885年(26歳)医学博士号を取得。患者の姉だったルイズ・ホーキンスと結婚する。

1886年(27歳)「シャーロック・ホームズ」シリーズ第一作目、『緋色の研究』を執筆。翌年、ピートン・クリスマス年鑑に掲載される。

1890年(31歳)『四つの署名』がリコンピット2月号に掲載される。医者として眼の研究をしにウィーンへ行く。

1891年(32歳)3月下旬に帰国し、ロンドンで眼科専門医として開業するも失敗。本格的に作家活動を開始する。6月、サウス・ノーウッドに引っ越す。

1892年(33歳)前年から順に発表していた12編のホームズ短編小説が成功し、『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化される。その後も数年に渡り、ホームズ短編小説を発表していく。

1897年(38歳)ハイド・ヘッドの邸宅、アンダーショーに引っ越す。

1899年(40歳)ボーア戦争が勃発し、義勇兵に志願するも拒否される。

1900年(41歳)4月、南アフリカに赴く。7月に帰国し、国会議員に立候補するも落選。以降、毎年精力的に執筆活動を行う。

1907年(47歳)前年に妻を結核で亡くし、別の女性と再婚。クロウバラに引っ越す。

1917年(58歳)第一次大戦以降、心霊主義に傾倒するようになり、心霊学の公演を行う。

1930年(71歳)数年前から心臓発作をたびたび起こし、徐々に衰弱。7月7日、クロウバラの自宅で死去。

 

コナン・ドイルの生涯

ここでは、コナン・ドイルの生涯における功績を簡単にご紹介していきます。

医者としての顔

イギリスのエディンバラで生まれ育ったコナン・ドイル。

学生時代からスポーツ万能で好奇心旺盛、活発な少年でした。

そんな彼は17歳のとき、家に間借り人として住んでいた医者の影響を受け、

医者を志しエディンバラ大学の医学部に入学します。

しかし彼にとって大学の授業は退屈なものが多く、学業はまずまずの成績で、

スポーツや通学路にあった古本屋で本を読み漁るなどして過ごしました。

しかし、在学時には船医の助手として北極海行の船に乗船し、

卒業後はアフリカの汽船会社の船医として就職します。

船医の仕事を退職した後は、ポーツマス市郊外の町で診療所を個人開業し、

約8年に渡り医者としての生活を送っていました。

副業から本業へ

医者として社会人生活を送っていたコナン・ドイルでしたが、

もともと医者が多い町だったため、彼の診療所を訪れる患者は少なく、

このときから空いた時間を使って執筆活動を行うようになりました。

主に短編小説を書いては雑誌社などに投稿し、その中のいくつかの作品は買い取られ、

少しずつ副業として収入を得ていました。

後にコナン・ドイルの代表作となる「シャーロック・ホームズ」シリーズの第一作目、

『緋色の研究』は、書き上げた当初はなかなか出版社が決まらず、

やっと世に出されてからも評判はあまり高いとは言えませんでした。

しかし、その間にもコナン・ドイルは精力的に執筆活動を行い、

1889年に出版された歴史小説『マイカ・クラーク』で高い評価を得ます。

この作品で作家としての軌道に乗り始めた彼は、

出版社から依頼を受け、シャーロック・ホームズシリーズの二作目を書き始めます。

この作品でも高い評判を得ると、そこから徐々に本格的な作家として転身していくのです。

代表作の誕生

シャーロック・ホームズシリーズが大ヒットする最初のきっかけは、

彼が雑誌社にシャーロック・ホームズを主人公にした読み切りの短編小説

6編持ち込んだことでした。

コナン・ドイルは既に同主人公の作品を二作出版していたため、

雑誌に毎月一作ずつの掲載が決まると、発売前から世間の期待は高まっていました。

そして結果的に雑誌の売り上げ販売数の貢献につながり、

世間から次回作を期待する声が多数挙がったことで、

彼はその後も多くのシャーロック・ホームズシリーズを世に送り出すことになります。

雑誌に掲載されていたシリーズは、後に数編ずつにまとめられて単行本化され、

それがシリーズの更なるヒットに貢献することになりました。

政治的な活動

母国イギリスに対する愛国心が強かったコナン・ドイル。

彼は作家業を精力的に行う一方で、政治活動に関する関心も強く、

マスコミ紙などで政界進出への意欲も語っていました。

そして1900年の解散総選挙の前には政界から、

著名な作家になっていた彼は候補者にならないかと誘われ、

保守党である自由党一党から出馬します。

結果を言えばコナン・ドイルは落選してしまいますが、

党からすれば相手側の票を前回より大幅に減らすことに貢献していました。

 

コナン・ドイルにまつわるエピソード

ここでは、コナン・ドイルに関する裏話を2つご紹介します。

医者時代の失敗

シャーロック・ホームズ作品の二作目『四つの署名』を出版し、

彼の作品が徐々に世間の評価を得始めた頃、

まだ本業が医者だったコナン・ドイルは突然ウィーンへ眼科の研修を受けに行きます。

学生時代にドイツ語の勉強を兼ね留学をしたことがあった彼でしたが、

専門用語の多いこの研修についていくことができず早々に帰国し、

ロンドンで無免許のまま眼科専門の診療所を開きます。

しかしロンドンには当然のように免許を持った優秀な医者が溢れていたため、

コナン・ドイルの診療所は立ち行かず、

それ以降彼は作家としての道一本に絞ることになったのです。

作者が主人公にうんざりしていた?!

大ヒットとなったシャーロック・ホームズシリーズ。

しかしコナン・ドイル自身の心境としては、

主人公シャーロック・ホームズが世間から愛されることには複雑な気持ちでした。

というのも、コナン・ドイル自身はミステリー作家や推理小説家としてではなく、

歴史小説家として名を馳せたいと思っていました。

実際に彼は長期の研究や調査に基づいた歴史小説を何冊も発表し、

『ホワイト・カンパニー』は学校教育にも使われるなど、大きな功績も遺しています。

しかし、世間からのシャーロック・ホームズへの愛は予想以上で、

コナン・ドイルが別の作品を書きたいと思っても、

シャーロック・ホームズシリーズの続編を望む声に応えざるを得なくなっていたのです。

 

きょうのまとめ

今回は、コナン・ドイルについて、その功績と生涯をご紹介してきました。

いかがでしたでしょうか。

最後に、コナン・ドイルとはどんな人物だったのか簡単にまとめると

① 19世紀後半~20世紀前半にかけて活躍したイギリスの作家。

② 代表作「シャーロック・ホームズ」シリーズが有名だが、他にも歴史小説など多くの作品を遺している。

③ 作家として大成する前は医者として働き、作家業に専念するようになってからは政治活動にも参加していた。

その生涯で多くの作品を世に送り出してきたコナン・ドイル。

シャーロック・ホームズシリーズを読み尽くしたという方は、

彼の書いた歴史小説を読んでみてはいかがでしょうか。

 

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