後漢の末期から三国時代にかけて活躍し、蜀漢の初代皇帝になった
劉備(字 玄徳)には、息子が3人しかいませんでした。
皇帝である人物なのに息子が少ない理由は、
劉備が貧しい暮らしをしていた期間が長かったからだと言われています。
劉備にとってとても大切な3人の息子は、それぞれどのような人物だったのでしょうか?
今回は彼の息子について、長男から順番に紹介していきます。
劉禅
長男の劉禅は、父の死後に魏から攻められて降伏するまで蜀漢の皇帝を務めました。
母親は劉備の妻、甘夫人です。
生没年は207年から271年であることが分かっています。
政治的なことは苦手だった劉禅
残念ながら、劉禅はあまり国の政治などは得意ではなかったようです。
劉禅は、皇帝の座についてから宦官の黄晧を寵愛するようになりました。
魏から責められた際にも、
「敵はこちらまで攻めて来ない。」
という黄晧の占いを信じてしまったために、十分に戦う準備をすることができなかったと言われています。
魏に攻められた際には、呉や南蛮に逃亡しようと計画しますが、他の人からの助言を受けて魏に降伏して、安楽公になります。
この時劉禅の五男と側室だった女性が自害してしまっています。
暗君として名を残す
魏に攻められて降伏した後、劉禅は洛陽へと身柄を移されます。
劉禅が洛陽にいるとき、魏の将軍である司馬昭は、
「蜀のことが懐かしくないですか?」
と劉禅に尋ねたことがありました。
その際に劉禅は、
「ここが楽しいから、蜀のことなど思いださない。」
と答えたと言われています。
劉禅の答えに周りは驚き、家臣から
「あのような質問をされた場合には、祖先が眠っている土地のことを思い出して悲しまない日はない。と答えてください。」
と助言されます。
司馬昭がもう一度同じ質問を繰り返すと、家臣に言われたとおりに劉禅が答えたため、
「救いようのない阿斗」とまでささやかれるようになってしまうのです。
劉永
劉永は劉備の二男です。
兄の劉禅とは異なり、母は誰だか分かっていません。
生没年も不詳です。
劉永は221年に父である劉備から魯王に任命されましたが、
劉備が亡くなって劉禅が皇帝となると甘陵王へと位を変更されます。
劉永は、兄の劉禅が寵愛していた黄晧ととても仲が悪かったようです。
そして劉禅に黄晧に対する寵愛を注意したことによって、劉禅から疎んじられるようになってしまいます。
劉永は10年に渡って朝廷への参内も禁止されてしまったことがあったということが分かりました。
劉理
劉理は劉備の三男です。
残念ながら二男の劉永と同様に、母が誰だかは分かっていません。
生まれた年も不明です。
劉理は劉備から梁王に任命された後、230年には長男の劉禅から安平王に位を変更されました。
とても短命で、244年に病気を患って亡くなっています。
劉理は若くして病気で亡くなってしまいましたが、劉理の子も、そして孫も短命だったことで知られています。
三代渡って若くして亡くなるという不幸が続いたことを、兄の劉禅は気の毒に思ったようです。
劉理の孫が亡くなった後、彼の別の息子に王の位を継承させました。
きょうのまとめ
今回は劉備玄徳の3人の息子について紹介しました。
残念ながら二男の劉永と、三男の劉理にまつわるエピソードはあまり多く知られていないようです。
魏が圧倒的に大きな力を持っていたということも、
劉備玄徳が築いた蜀が早くなくなってしまった原因の1つですが、
長男の劉禅はあまり国の政治が得意ではなかった人物として知られていることが分かりました。
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