吉田松陰は有名です。
教科書には彼の教え子たちの活躍が取り上げられていることが多いでしょう。
大河ドラマ「花燃ゆ」では吉田松陰の妹、文にスポットライトがあたりました。
当時、女性は表舞台に登場することが少ないので表立った活躍は難しかったと思います。
文は人生において、彼女を取り巻く人々の狭間で多くの苦しみを味わってきました。
幸せだった期間の方が少なかったかもしれません。
文の生涯について解説いたします。
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杉文(すぎふみ/あや)幼少期
1943年に杉百合之助と滝の間に4女として生まれます。
吉田松陰の元々の名前は杉寅次郎です。伯父の吉田大助の養子となったため、
吉田姓を名乗っています。
文には2人の兄(うち一人が吉田松陰)、3人の姉、1人の弟がいました。
仕切ることが好きで面倒見が良かったようです。
兄の吉田松陰が密航の罪で捉えられ、野山獄に移されると、文は毎日のように牢獄に通って書物を届けていたようです。
文と松陰の兄である梅太郎の二人のおかげで、松陰は獄中生活の間も多くの書物を読むことができました。
また、松下村塾では「女幹事」として手伝い、塾生との親交が深かったようです。
2人の兄は松陰の弟子でそれぞれ活躍をしています。友人には入江すみと吉田ふさがいました。
松陰の弟子である、入江九一、吉田稔麿の妹、入江すみと吉田ふさは、文の友人でした。
一度目の結婚!実は他の相手だった可能性も
松下村塾で一番優秀だった久坂玄瑞と結婚をします。
しかし、実際には同じく弟子である桂小五郎との縁談の話もありました。
桂との縁談の話は立ち消え、久坂と結婚します。
とは言え、久坂は文の容姿が好みではなく、文もあまり乗り気ではなかったため一度縁談を断っています。
結婚当初、文は15歳、久坂は18歳でした。
久坂は身寄りがおらず、文の実家、杉家で新婚生活をスタートさせます。
お互い気乗りしない縁談だったとは言え、夫婦仲はまずまずだったようです。
しかし、久坂は松下村塾でも筆頭格だったため、家に居ることは少なく、
文が久坂と一緒にいる時間は少なかったようです。
兄と夫の死と愛人
兄の死
文が久坂に嫁いでから2年後、兄の松陰が江戸伝馬町の獄に送られることになりました。
安政の大獄により、松陰は死罪となります。
その後、久坂は松陰の遺志を継ぎ、攘夷運動に力をいれていました。
江戸と京都と萩を行ったり来たりの毎日で忙しく過ごしていました。
夫の死
そして、ついに戦いは始まりました。
久坂玄瑞率いる長州藩と会津藩が蛤御門の前で激突!
世に言う禁門の変(蛤御門の変)です。
玄瑞は享年25歳で自刃します。
久坂文は22歳で未亡人となってしまうのです。
久坂家の家督
大黒柱である久坂玄瑞が亡くなって、久坂家はお家存続問題が発生します。
文の姉である寿子と小田村伊之助(のちの楫取素彦)の息子、
つまり文の甥である久米二郎が生前に久坂家の養子となっていたため、久坂家を次ぐこととなりました。
夫の愛人現れる
久坂玄瑞は京都にいる期間も長く、芸者の辰路という愛人がいたことが生前発覚しました。
玄瑞の死後、辰路と文は対面したようです。
玄瑞と辰路の間には秀次郎という子どもがいたことから、
久坂家の正統な跡取りとして、文は迎え入れます。
今の時代とは違って、主の血を引く男子がいれば、それがたとえ愛人の子であっても
家督を継ぐのが一般的でした。
文にとっては、夫の死に続いて愛人の子どもを育てるという辛い時期だったことでしょう。
大抜擢の役職
玄瑞の死後、心機一転、文は毛利家に仕えます。
毛利元徳と毛利安子(銀姫)の間に誕生した興丸(後の毛利元昭)の守役(教育係)に抜擢されます。
武士といっても農業も兼業する下士の娘であった文が世継ぎの守役になることは大抜擢、大出世でした。
文の教養が毛利家の目に留まったようです。
そして、新たな人生のスタートとともに、久坂文は改名します。
このころから久坂美和と名乗るようになります。
大変でありながらも、世継ぎの守役として充実した日々を送っていたと考えられます。
藩の中心地が萩から山口に移ったときにも同行し、明治初期まで毛利家に仕えていました。
版籍奉還で長州藩がなくなり、毛利安子夫婦が東京に移ったのを機に、山口から萩の実家に戻ったようです。
毛利安子と同じ歳だったこともあり、守役としてだけではなく、良き相談相手でもありました。
安子が東京に移った後も、文と手紙でのやり取りがあったようです。
新たな地にて、そして二度目の結婚
時は流れ、明治となります。
楫取素彦(元の小田原伊之助)は群馬県令に就任し、萩から群馬県へ拠点を移します。
妻であった文の姉、寿子は病気の体を抱えながら、夫を支えるため、群馬へ移り住みます。
文は寿子の看病のため、群馬についていきます。
明治14年に寿子が死去し、文(美和)に後妻としての話が持ち上がります。
美和自体は「貞女二夫にまみえず」と当初は応じませんでしたが、母である滝の説得により、
再婚を決意します。
滝は
「美和と楫取素彦の結婚こそが亡夫・久坂玄瑞や亡姉・寿子、亡兄・吉田松陰、皆の願いであろう」
と説いたようです。
美和は美和子と改名し、楫取素彦と再婚、前橋に移り住みました。
その後は楫取素彦が議員になったため、美和子とともに東京に移り住みます。
明治20年には華族となり、男爵の地位を賜ります。
衆議院議員にも複数回連続当選するなど、妻の美和子も男爵夫人として多忙な半生を送りました。
しばらくして、山口県への移住が許可され、防府に新居を構えます。
このとき、楫取素彦65歳、美和子51歳でした。
楫取素彦は84歳まで生き、美和子はその9年後79歳で死去します。
苦労が報われた文の人生
文は吉田松陰の妹として生まれ、罪人の妹として萩では風当たりが強かったようです。
最初の結婚生活も短く、愛人や子どもの出現により、かなり苦労したことが予想されます。
毛利家の重役に抜擢されたことが文の人生の第一転機だったかもしれません。
その後、姉・寿子の夫だった楫取素彦と結婚し、多忙ながらも幸せな日々を過ごしたようです。
楫取素彦は真面目で温厚な性格だったようで、当初、統治が難しいとされていた群馬県をうまくまとめあげました。
そして、富岡製糸場の発展にも力を注ぎました。
楫取は文(美和子)に対しても、理解がありました。
嫁ぐ際に久坂玄瑞が残した21通の手紙を持ってきて良いと許可しただけではなく、
それらを巻物としてまとめ、美和子の宝物として持っておくように言ったようです。
久坂玄瑞が同志であったのも理由の一つかもしれませんが、
とても心の広い人物であることを裏付けるエピソードです。
きょうのまとめ
文の人生を振り返ると、個人的には松陰の妹らしい人生だったのではないかと感じます。
逆境には立ち向かい、毛利家では自分の志を持って、自分を生かす。
常に必死で一生懸命生きている様は、吉田松陰のマインドがしっかり文の中でも生きていたことを
証明するものなのではないでしょうか。
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