吉田松陰 松下村塾の教え〜現代の欧米スタイル授業を再現

 

吉田松陰が松下村塾で多くの幕末の有能な志士や明治維新に活躍する人材を輩出したことは知られています。

松下村塾の教えは現代に十分通じるものがあります。

授業スタイルや学びの姿勢など見習いたい松下村塾の教えを解説いたします。

 

授業の内容

松下村塾では、以下のような授業がおこなわれていました。

・孟子の言葉(漢詩)

・山鹿流兵法

・時事

・倫理学

・地理学

・歴史

・地理学

・経済

・芸術

孟子の言葉は松陰の名言にもたくさん引用されていることから、

尊敬し、書物もかなり読み込んでいたようです。

そしてときには芸術まで幅広い分野の授業がおこなわれていました。

特に、地理学や歴史は松陰自身が遊学の中で得た知識を中心に講義が展開されていたようです。

この時代、外国船が度々日本の海岸に訪れるようになり、自身もアメリカ船に乗り込んで

出国しようと試みた経験があるため、海外に対する興味と意識が強かったのでしょう。

また時事問題を取り上げ、夜な夜な議論させることもあったようです。

基本的には時間の決まりもなく、塾生が1人でもやってくれば、

自然と授業が始まるという自由なスタイルでした。

 

松下村塾の教え

ディスカッション中心の授業

松陰が教壇に立って皆に教えるというスタイルではなく、

基本的にはディスカッションが多かったようです。

1対1のときもあれば、1人の塾生が講義を行い、

その議題について皆で討論することもありました。

授業スタイルは欧米の大学のようで、松陰と塾生が円になり意見を言い合うのが基本でした。

現代の日本でも基本的には教壇に先生が立ち、生徒に教えるというスタイルが多く、

海外の学生に比べると自分の意見を言う訓練が少なく、ディスカッションを苦手とする生徒が

多いように思います。

近年、徐々に取り入れられ始めたアクティブラーニングを既に実践していたということに驚きます。

師弟共学

当時の『先生』は絶対的な権力を持ち、崇められる存在でした。

しかし、松陰は自分も塾生とともに学ぶという姿勢を大切にしました

これが師弟共学です。

塾生から「先生」と呼ばれてはいたものの、塾生のことを「生徒」ではなく

「仲間」「友だち」と塾生以外の人には話していました。

また、入門希望者には

「あなたは何を私に教えることができますか?」と質問することもありました。

実際、先生からこんな質問を受けたら、入門を躊躇しそうですが、

それでも学びたいという気持ちが強い弟子たちが入門しているんですね。

だからこそ身分は関係なく、頭の切れる優秀な人材が集まってきたのかもしれません。

現地主義

吉田松陰が野山獄に収容されていたのは1年数ヶ月ですが、その間に詠んだ本の数は600冊以上!

かなりの読書家で、本は先人の素晴らしい教えを一気に学ぶことのできる優れた勉強道具だと

本にまつわるいくつもの名言を残しているほど本が好きでした。

しかし、実際の教えでは、

「本を読むことも大切だが、現場を知ることが最も大切なことだ」と

常々塾生たちに話していたようです。

気になることは自分で現場に出向いて確かめることが真実を知る上で大切なことだという

「現地主義」を重んじていました。

松陰自身も生涯で8回、江戸から長崎まで遊学の旅に出ていました。

松下村塾を開いていた頃は軟禁状態で家から出られなかったため、塾生を遊学させ、

江戸や京都の状況を逐一報告させていたようです。

軟禁状態でも国内情勢に通じていたので塾生たちの足で稼いだ情報網のおかげだったんですね。

強みを伸ばす教育方針

松陰には「人の長所を見る」才能がありました。

短所に目を向けないのではなく、

長所と短所は表裏一体であるという考えを持っていたので、

人の短所を長所に変えることでその人の才能はさらに開花することを重視していました。

有名なエピソードとして愛弟子の高杉晋作の例があります。

裕福な家庭である高杉家に生まれた晋作は藩校である明倫館に通うも、その授業には満足せず、

親の決めた道に進むことにも反発をみせ、

毎日「つまらない」と言いながら遊びほうけていました。

一方で晋作は頑固で負けず嫌いな性格だったため、

学ぶことも人の話を一生懸命聞くこともしませんでした。

松陰は晋作の元々の才能を買っていたので、晋作の性格を矯正することはしませんでした。

しかし、晋作と幼なじみで塾内で最も優秀だった久坂玄瑞(くさか げんずい)を

晋作の前で誉め称えたところ、負けず嫌いの性格に火がつき、

晋作も学問に一生懸命取り組むようになったのです。

晋作の性格と行動力で学問にも力が入り、メキメキと頭角を現していきます。

久坂とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれるほどになりました。

 

松下村塾に欠点はあるのか

松下村塾の長所を述べてきましたが、当時はかなり批判も多かったようです。

というのも、吉田松陰は当時、罪人。

今の社会から見れば、幕府の一方的なルールから外れていただけなのですが、

当時の人から見ればやはり法を犯したとんでもない人という見方が強かったかもしれません。

その罪人は攘夷強行派であり、議論することで更に過激になる様子を見ていて、

長州藩も庶民も恐怖を感じていたかもしれません。

社会心理学でいうところの「リスキー・シフト」です。

一人ではリスクを冒さなかったのに、集団になると意思決定の際にお互い触発されて、

より危険な決定を下す傾向があるという現象です。

リスキー・シフトになりやすいということを頭の片隅に置きながら行動していれば、

禁門の変や萩の乱など国内の反乱は起こらなかったのかもしれません。

松陰自身も本音のところでは「必ずしも攘夷である必要はなく、江戸幕府に国を任せておけない」

という考えが大きかったようです。

しかし、実際は幕府の役人にもの申す形となり、死罪になってしまいました。

リスキーになりやすいという欠点はあれど、現代のセミナーも似たようなところがあると感じます。

個人的には、より実践を重視した松下村塾のような塾があれば是非とも通って、

松陰のような先生を師と仰ぎたいと思います。

 










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