吉田松陰、自ら死罪を申し出る!2つの辞世の句にこめられた意味とは?

 

29歳の若さで江戸幕府によって処刑されてしまった吉田松陰。

自分の命をかけて志を守りました。

というのは、表向きの話で、松陰はなんと自ら「 死罪 」を申し出ていました。

井伊直弼も本当のところ、死罪でなくてもいいかな、と思っていたようです。

安政の大獄と松陰の最期の時のエピソード、そして2つの辞世の句について解説いたします。

井伊直弼は本当に悪い人?

江戸幕府の要人の一人、井伊直弼(いい なおすけ)は教科書のイメージより頭の切れる人だったようです。

教科書では「 老中 井伊直弼は一人でアメリカのハリスと会談し、日米修好通商条約を結びました 」と書かれています。

勝手に不平等条約を結び、安政の大獄で大量に人を裁いている悪人、というイメージを持っている人も多いでしょう。

しかし、実のところ、条約調印に関しては最後まで朝廷の意向を無視できないと思っており、開国するか否かの回答を先延ばしにしたかったようです。

実際にハリスの脅しを真に受けて、条約に調印してしまったのは松平忠固(まつだいら ただかた)という老中でした(しかも日米和親条約の調印時にも老中を務めている)。

つまり不平等条約締結の元凶は松平忠固だったと思われます。

忠固の暴走に直弼は呆れ、すぐに条約調印の関係者である松平忠固と堀田正睦(ほった まさよし)を要職から罷免しました。

残念なことに直弼は新参者だったため、味方が少なく、いつの間にか条約を締結したのは直弼だ

という間違った情報が出回ってしまいました。

つまり、「朝廷の許可をもらっていないのに暴走して開国した。しかも不平等条約で国のためにもならない。」

ダメダメな老中だと思われてしまったのです。

攘夷派の大名や学者たちは直弼を大非難します。

幕府の内部でも問題が山積みの中、攘夷派との衝突も重なり、かなりストレスも溜まっていたのかもしれません。

話し合いで埒があかなくなった直弼は、攘夷派を成敗するしかない!と覚悟を決めます。

こうなったら、武士だけでなく、学者も庶民も攘夷派まとめて処罰だ!と安政の大獄が始まってしまいます。

吉田松陰に焚き付けられた井伊直弼

吉田松陰は攘夷派(外国人を追い払え!と訴えていた人々)の中でも過激な意見を持っていました。

松下村塾では弟子たちと常日頃から外国船を打ち払うにはどうしたらよいか、日本の防衛の強化について、開国へと踏み切った幕府は信用できない、といったことについて話し合っていました。

安政の大獄で目を付けられないわけがありません。井伊直弼の命令により、逮捕されます。

直弼の思いとは裏腹に、吉田松陰はとにもかくにも攘夷!攘夷!とそればかりを訴えていました。

老中の暗殺を企てたのは本当か? 」と聞かれたときには認めるだけでなく

何人も暗殺するつもりでした 」と要らぬ自白までしています。

しかし、自白したため、通常であれば流罪が妥当な判決です。

ではどうして死罪になってしまったのでしょう?

なんと驚き!松陰自ら「 こんな危険人物、流罪でいいんですか。死罪が妥当ですよ! 」と申し出るんですね。

直弼も頭にきて「 そんなに望むなら死刑だ! 」と死罪が確定しました。

個人的な気持ちとしては、吉田松陰は素晴らしい弟子を育て、尊敬する人物の一人だったんですが、死罪になった経緯を知って軽くショックを受けています。

井伊直弼は悪者だ!と決めつけていましたが、歴史は見る立場によって見える景色が180度変わりますよね。

辞世の句は2つあった!?

いよいよ最期のときを迎える吉田松陰。2つの辞世の句を詠んでいます。

弟子宛

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

出典:留魂録

【意味】
この身はたとえ武蔵野の地に朽ち果てたとしても、日本を思う魂だけでもこの世に留めておきたい。

【解説】
松陰が死の直前に弟子たち宛に書いた遺言が『留魂録(りゅうこんろく)』と言われるものです。

その冒頭にこの辞世の句が綴られています。

松陰の無念さと弟子たちへの遺志を受け継いでくれるだろうという期待が込められた一句です。

家族宛

親思うここにまさる親ごごろ きょうの音ずれ 何ときくらん

【意味】
子どもが親を慕う気持ちよりも親が子を愛する親心は、どれほど勝ったものであろう。
しなればならない私の便りを知って、故郷の両親はどれほどに悲しむことであろう。

出典:永訣書

【解説】
家族に宛てた辞世の句です。
自分の意思に従って無茶な行動もたくさんして家族に迷惑をかけたことは分かっていたようです。

それでも見放さなかった家族への感謝の気持ちを辞世の句として残しています。

この言葉から諺の「 親思う心にまさる親心 」が生まれています。

辞世の句から読み取れること

流罪ではなく死罪を望んだという話を知り、なぜ松陰は生き延びて倒幕を見届けなかったのだろうかと不思議に思ってしまいます。

しかし、これもまた彼の性分だったのかもしれません。

夢を持て、理想を掲げろ、志を貫け 」といった教えを忠実に実行していたのは松陰自身だったのではないでしょうか。

認めなくても良かった、数人の老中の暗殺の企て。これも自分の志や理想を話す上で必要なことだったのかもしれません。

至誠にして動かざる者は、未だ之れ有らざるなり 」という言葉を信じ、幕府の役人の考えを変えさせ、幕府内部から革命を起こさせようと試みた可能性もあります。

そのように考えると、勢いで余罪を自白したというよりは、志をもっていたからこそ認めた、のかもしれませんね。

松陰らしい最期だったからこそ、弟子たちも触発されて攘夷運動への原動力になった可能性は否めません。










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