「十三人の合議制」は、源頼朝の死後に嫡男頼家が第2代将軍となった時に始まりました。
どんなものだったのか、見て参りましょう。
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十三人の合議制とは
- 1199年〜1200年
- 頼朝死後に鎌倉幕府が創り出した集団指導体制
- 鎌倉幕府の役職として設置された評定衆(重要政務や裁判などを合議するための役職)の原型
十三人の合議制年表
西暦
1199年
1月 源頼朝死没。頼家が鎌倉幕府第2代将軍に就任
4月 十三人の合議制開始
10月 梶原景時失脚
1200年
梶原景時と一族滅亡(梶原景時の乱)。安達盛長と三浦義澄病死により合議制は解体。頼家が修善寺に追放される
1203年
比企能員が北条氏によって謀殺され、一族も滅亡(比企能員の変)
1204年
源頼家が北条氏によって謀殺される
1213年
和田義盛は関係悪化した北条義時に対し挙兵するが、義時軍に討伐され一族滅亡(和田合戦)
十三人の合議制とは何か
頼朝死後に鎌倉幕府が創り出した集団指導体制のことです。
1225年に鎌倉幕府の役職として設置された評定衆(重要政務や裁判などを合議するための役職)の原型になりました。
これにより第2代将軍頼家は政策や訴訟を直接に決定・裁断するのではなく、有力御家人13人の話し合いの結果を参考にして最終判断をすることとなりました。
どうして十三人の合議制システムが採用されたのか
1199年、鎌倉幕府第1代将軍・源頼朝が亡くなると、後を継いで第2代将軍となったのは頼朝の嫡子でまだ18歳の源頼家でした。
頼家はまだ力を持った御家人たちを統率するような実力もなかったのに、権力だけを振りかざす行動が目立ったと言われます。
そこで頼家の母・北条政子や彼女の実家である北条氏は、若い将軍1人に権力を集中させずに「十三人の合議制」で幕府を運営することを考えついたのです。
また、頼朝亡きあと幕府の主導権が大江広元や中原親能ら公家出身の官僚によって握られたことで、有力御家人たちからの不満が噴出したための対応策だったという説もあります。
「十三人の合議制」がもたらした結果
その後の鎌倉幕府におけるこの13人の御家人たちや将軍・頼家が争った血みどろの権力闘争を考えると、北条氏が源氏将軍の権力を奪うのが目的だったのかもしれません。
合議制となった経緯を語る『吾妻鏡』という鎌倉幕府の歴史書が編纂された当時の権力者は北条氏です。
そのため、この記録は北条氏の正当性を強調している可能性もあり、記述内容についての客観性には疑いが持たれています。
この制度は善意に解釈すれば、若い頼家の政治力を補完するためのものだったとも考えられます。
しかし、いずれにせよ「十三人の合議制」は源頼家の実権を奪うものでした。
頼家が将軍に就任したのは1199年の1月。
そして合議制になったのは4月。
たった3ヶ月で源頼家は幕府の最高権力者からただのお飾り将軍となってしまいました。
本当に13人がミーティングしていたの?
実は、13人の宿老が勢揃いして会議を開いたわけではありません。
メンバーのうちの数名によって評議が行われ、それに対して頼家が最終判断を下す、というシステムでした。
十三人のメンバーと合議制のその後
ここでは13人のメンバーを確認し、その後の状況を追ってみます。
13人のメンバーとその所属
・生没年:1138-1215年(享年78歳)
・出身地:伊豆国(現在の静岡県)
・役職:伊豆・駿河・遠江守護。鎌倉幕府初代執権
・源頼家の外祖父。北条義時の父。鎌倉幕府初代執権
②北条義時
・生没年:1163-1224年(享年62歳)
・出身地:伊豆国(現在の静岡県)
・役職:鎌倉幕府第2代執権
・北条時政の次男、政子の弟。源頼家の叔父。「13人の宿老」の最年少
・生没年:?-1203年
・出身地:阿波国もしくは安房国)
・役職:信濃・上野守護
・源頼朝の乳母比企尼の養子。源頼家の乳母夫、頼家の妻・若狹局の父。頼家の嫡子一幡の祖父となったことで権勢を強めたが、それを警戒した北条時政の謀略で能員を含めた比企一族は滅亡(比企能員の変)
④安達盛長
・生没年:1135-1200年(享年66歳)
・出身地:不明
・役職:上野奉公人、三河守護
・源頼朝の乳母比企尼の娘婿で、頼朝の流人時代からの側近。頼朝と北条政子の間を取り持った人物だとされる
⑤足立遠元
・生没年:不詳
・出身地:武蔵国足立郡(現東京と足立区から埼玉県北足立郡)
・役職:公文所寄人
・足立氏の祖。安達盛長の甥。武蔵の在地武士。平治の乱では源義朝に、頼朝挙兵直後から頼朝に従い側近となる。文武に優れ、武士ながら公文所寄人となった
⑥三浦義澄
・生没年:1127-1200年(享年74歳)
・出身地:相模国三浦郡(現在の神奈川県三浦市)
・役職:相模守護
・桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族。三浦大介義明の嫡男。源義朝の家人だった。源頼朝の源氏再興の挙兵後、石橋山の戦いで敗走した頼朝を安房国で助けた以来の忠臣
⑦和田義盛
・生没年:1147-1213年(享年67歳)
・出身地:不明
・役職:鎌倉幕府初代侍所別当
・三浦氏一族として源頼朝の挙兵に参加。三浦大介義明の孫。頼朝の死後梶原景時の変、比企能員の変、畠山重忠の乱などで北条氏に与したが、北条氏の挑発を受けて幕府軍に対して挙兵し(和田合戦)和田氏は滅亡
・生没年:1142-1218年(享年67歳)
・出身地:不明
・役職:武者所、常陸守護
・下野の武士。小田氏の始祖であり小田城の築城者。源義朝の落胤ともいわれる。源頼朝の挙兵に参陣し奥州合戦では東海道大将軍に任ぜられた。
⑨梶原景時
・生没年:1140-1200年(享年61歳)
・出身地:相模国(現在の神奈川県)
・役職:侍所所司、侍所別当、播磨・美作守護
・源頼家の乳母夫。石橋山の戦いで平家方についていたが源頼朝を助けた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るうが頼朝死後に追放され一族と共に滅ぼされた(梶原景時の乱)
・生没年:1148-1225年(享年78歳)*異説あり
・出身地:不明
・役職:鎌倉幕府初代公文所別当・政所別当
・朝廷で実務経験を積んだ下級貴族。鎌倉幕府草創期の首脳。貴族との交渉に活躍し、源頼朝の死後も北条政子や執権・北条義時と協調して幕政の中心で尽力した
⑪中原親能
・生没年:1143-1209年(享年82歳)
・出身地:不明
・役職:政所公事奉公人
・公家出身の御家人で大江広元の兄。源頼朝の次女三幡の乳母夫。頼朝の側近で、幕府の対公家交渉で功績があった
⑫三善康信
・生没年:1140-1221年(享年62歳)
・出身地:不明
・役職:鎌倉幕府初代問注所執事
・源頼朝の側近。公家出身で母が頼朝の乳母の妹。頼朝とは伊豆配流時代から通じ、京の情勢を知らせて挙兵を助けた。頼朝死後も幕府の重臣として活躍
⑬二階堂行政
・生没年:不詳
・出身地:相模国鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)
・役職:公文所寄人、政所家令、政所執事
・大江広元・三善康信と並んで源頼朝を支えた公家出身の実務官僚。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖
13人のメンバーは、いずれも鎌倉幕府における要職・側近などを務めていた人々です。
①北条時政、②北条義時
・侍所(初期の鎌倉幕府の機構。軍事・警察担当):
⑦和田義盛
・政所(公文所から変更。一般政務・財政担当):
⑩大江広元
・問注所(訴訟・裁判担当)の別当(長官):
⑪三善康信
・その他の重臣たちは、源頼朝やその父親の義家の時代から深く関わっていた人々
このように有力武家や公家など、所属に偏りなく13人が選出されています。
13人の合議制のその後
実は、このシステムはそれほど長くは続きませんでした。
・同年末、⑨梶原景時は自身の讒言がきっかけで、他の御家人たちの反感を買って失脚
・1200年1月、景時と一族が滅亡(梶原景時の変)
・同年、④安達盛長⑥三浦義澄が病没
こうして開始から翌年には3名が欠け、合議制は解体していたのです。
その後も
・1205年、①北条時政の失脚、
・1213年、⑦和田義盛が②北条義時によって挙兵に追い込まれ一族もろとも滅亡(和田合戦)
このように次々と合議制のメンバーは消えていき、第3代将軍・源実朝の後は、②北条義時が執権として鎌倉幕府の実質的な権力を掌握することになっていったのです。
きょうのまとめ
十三人の合議制とは?簡単にまとめると
① 源頼朝の死後、鎌倉幕府の宿老たち13人の評議によって政策を決め、将軍源頼家に裁決させるシステム
② 将軍頼家の実権を奪い、独裁を抑制するための方策
③ 制度が開始された翌年には事実上解体されていた制度
でした。
結果から考えると、北条氏が台頭し、執権として幕府の権力を掌握するために将軍源頼家の力を排除し、源頼朝時代からの古参の有力御家人を消し去っていくその一過程に「十三人の合議制」がうまくセッティングされたようにも見えますね・・・。
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