松下村塾の中でも吉田松陰が特に目をかけ、
その才能を開花させた4人の人物がいます。
後世の人々はその4人を「松門四天王」と呼んでいます。
今回は吉田松陰の弟子の中でも特に松門四天王について取り上げ、解説していきます。
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松門四天王とは
松下村塾で吉田松陰が塾生を指導したのは実質2年ほどといわれています。
松下村塾は身分や家柄に関係なく、学びたい人たちが集い、人数が集まると授業が始まるというスタイルでした。
わずか2年の間に塾生は様々なことを学び、その後の世の中に影響を与えます。
松陰の教えを直接受けたのは全体で100人にも満たないくらいだったと言われていますが、名前を聞いたことのある塾生は数多くいます。
塾生の中でも特に松陰が目をかけ、その才能を爆発的に開花された人物が以下の4人です。
・久坂玄瑞
・高杉晋作
・吉田稔麿
・入江九一
この4人が松門四天王と呼ばれています。
久坂玄瑞
草莽を率いた中心人物。
松陰が最も優秀だと評価したと言われる久坂玄瑞。
松陰の妹の文にとっては最初の夫です。
生い立ち
天保11年(1840年)萩藩医の家系に三男として生まれます。
本人は医者を継ぎたいという意志はあまりなく、お兄さんが家督を継いでいましたが、両親、兄を立て続けに亡くしたため、15歳の若さで家督を継ぐこととなります。
武士になりたかったため、松下村塾で「医者だ」と言われるたびに腹を立てていたようです。
性格
・勉強熱心
武士になりたいという思いが強かったこともあり、勉強にも人一倍熱心に取り組んでいました。
・年少防長第一流の人物たり。天下の英才たり。
その才能と努力は松陰からも高い評価を得ており、長州藩において、尊王攘夷派の中心人物として活躍しました。
・色男
容姿端麗で背は180cmくらいありました。
声も大きく美声、女性からはとても人気がありました。
新撰組副長の土方歳三が色男として有名ですが、土方よりも人気があったとも言われています。
彼の詩吟は「久坂流」として現代にまで受け継がれています。
動乱中の活躍
松陰の死後、遺志を継ぎ、長州尊攘運動の中心人物となっていきます。
松陰の唱えた論「草莽崛起」を元に活動の幅を広げていきます。
「草莽崛起」とは国民(大衆)こそが一斉に立ち上がり、大きな物事を成し遂げようとすることを意味しています。
最期は禁門の変で自害します。享年25歳でした。
久坂玄瑞は長州藩以外の志士たちにも影響を与えました。
土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎、武市瑞山(半平太と呼ばれることもある)、薩摩藩の西郷隆盛など、幕末に活躍した面々とも連絡を取り合っていたようです。
高杉晋作
草莽崛起を形にした人物。
久坂玄瑞と共に「松下村塾の双璧」と呼ばれ、松陰からの評価が非常に高い人物でした。
生い立ち
天保10年(1839年)長州藩士高杉小忠太の長男として生まれます。
高杉家は毛利元就の時代からの家臣であり、代々毛利家に仕えてきた名門です。
寺子屋、藩校である明倫館で学びます。
とはいえ、本人は学ぶことに興味がなく、
と遊びほうけていたようです。
幼なじみの久坂玄瑞に誘われ、松下村塾を見学に行きます。
松陰は晋作の才能を見抜きますが、学問に力が入っていない様子の晋作を見て、久坂玄瑞を褒めることで、競争心を煽ります。
晋作は松下村塾の門下生となり、一心不乱に勉強に励み、玄瑞とともに「松下村塾の双璧」と呼ばれるまでに成長しました。
高杉家は名門の家だっただけに、国禁を犯してまで密航を企てた松陰と距離を置くように晋作に何度も忠告していましたが、晋作は学問にのめり込んでいきました。
性格
・陽頑
松陰が晋作のことを評した言葉に、「陽頑」というものがあります。頑固さが表に出る、という意味です。
・負けん気が強く、感情を内に秘めておくのが苦手なタイプ
そんな一面をあらわすエピソードがあります。
子ども時代に晋作の落とした凧を他の武士が踏んだことがありました。
そのとき「謝れ!!」と激しく講義し、その武士に謝らせたという話があります。
動乱中の活躍
・奇兵隊結成
身分に関係なく、攘夷の意思を持っている男子を集め、奇兵隊を結成しました。
その後も幕府の第一次長州征伐に対抗し、挙兵。
長州藩の意見を倒幕に統一することに成功します。
第二次長州戦争では海軍総督として、幕府艦隊を退け、快進撃を続けます。
大政奉還を目の前にした同じ年に肺結核で帰らぬ人となります。享年27歳でした。
吉田稔麿
陰頑にして高等な人物。
生い立ち
天保12年(1841年)足軽であった吉田清内の長男として誕生。
名は栄太郎で、23歳の時に稔麿に改名。
元々は松陰以前の久保五郎左衛門が師匠だった頃の松下村塾に通っていました。
13歳で江戸藩邸で働き、16歳のときに萩に帰ります。
そして、松陰が主宰する松下村塾で最初の塾生である増野徳民に誘われて、門下生となります。
性格
・才気鋭敏にして陰頑なり
これは松陰の稔麿に対する評価です。
「陰頑」とは「頑固さが表に出ない」という意味で、
高杉晋作の陽頑の反対の意味です。
稔麿は無駄口を利かず、謹直重厚な人物だったといわれています。
・人を観察し、評するのが好き
塾生の普段の様子を観察し、あだ名や客観的評価をするのが好きだったようです。
高杉晋作は、とにかく負けん気が強く、頑固さが表に出て、周囲が恐れるほどだったと言われています。
その感情を内に秘めておくことができず、表に出す様子を「鼻輪のない暴れ牛」と評したのが稔麿でした。
動乱中の活動
松陰が野山獄に繋がれたとき、他の門下生は更に活動を行って行きますが、
吉田稔麿だけは家族や親族の身を案じ、松陰と距離をおきます。
また、松陰が江戸送りになるときも合わせる顔がないと、直接は会わず、隣人宅から、かすかに師匠の顔を見て見送ったと言われています。
松陰の死後も活動を控えていましたが、自分の中の志は何だったのか、
という思いが抑えられなくなり、脱藩し、京で行われた松陰の慰霊祭にも参加しました。
最期は池田屋事件で討ち死にします。享年24歳でした。
入江九一
一番の行動派。
生い立ち
天保8年、長州藩の足軽の家に生まれました。
家は貧しく、13歳で働きながら家計を支え、学問に励みました。
弟の野村靖とともに、松下村塾に入門。
しかし、入門の時期が遅かったため、松陰から学んだのはわずか1か月あまりだったようです。
それでも師の教えに忠実で、久坂や高杉らが反対する中、
松陰の考案した老中・間部詮勝の暗殺計画にも加わりました。
性格
・行動的
松陰からは
「久坂や高杉は優秀だが、度胸がない。しかし、君だけは国のために死ねる男児である。」
と評されています。
動乱中の活躍
松陰の死後も遺志を継ぎ、間部暗殺を計画します。
獄中の松陰から伏見要駕策の指示を受けて、弟の野村靖とともに実行しようとします。
参勤途中の長州藩主の行列を伏見で食い止め、朝廷に「攘夷」を誓わせようとする無謀な策に
久坂や高杉を始めほとんどの門下生たちは反対しましたが、
入江兄弟だけはそれを実行に移そうとします。
結果的には、事前に江戸幕府に察知されてしまい、入江兄弟は岩倉獄に収監されてしまいます。
禁門の変で久坂玄瑞らと一緒に戦いました。
久坂が自刃したのを受け、入江九一は脱出を試みましたが、敵の槍を受けてしまい、
最期はその場で切腹して果てました。享年28歳でした。
きょうのまとめ
吉田松陰の弟子、松門四天王についていかがでしたでしょうか。
簡単にまとめると
② 4人はそれぞれ明治維新前に亡くなっている
松陰の本当の願いは「攘夷を実行すること」や「倒幕」ではなく、
欧米諸外国に負けない国づくりをすることでした。
そういった先の夢を見据えて、幕末、そして明治維新に新しい国づくりを行った門下生たちもいます。
個人的には松陰の本当の遺志を継いだのは、明治維新で活躍した人々なのではないかと感じます。
伊藤博文、山県有朋、野村靖、品川弥二郎、木戸孝允(松下村塾ではなく、明倫館で松陰より教わる)の活躍にも、
根底には松陰の教えが刻まれていることでしょう。
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