宇喜多秀家はわずか10歳で宇喜多家を継ぎました。
豊臣秀吉の寵愛を受け、五大老の一人となります。
関ヶ原の戦いでは西軍に与して主力になり、戦後は島津家を頼って薩摩(鹿児島県)に落ちのびます。
その後、島津家は徳川家に臣従、秀家の身柄を引き渡しました。
本来なら斬首ですが、罪一等減じられ八丈島に流刑となります。
秀家はどんな家紋を用いていたのでしょうか?
気になるところですね。
今回は宇喜多秀家が用いた家紋について書きます。
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宇喜多家と秀家が用いた家紋とは
宇喜多家の家紋とは?
宇喜多家の家紋は「剣片喰」です。
「片喰」とは日本古来の植物です。
少々、専門的な話になりますが、カタバミ科の多年草です。
庭先や道端に自生し、ハート形の葉が特長で、葉は皮膚病の薬になるそうです。
春から秋にかけて黄色い花が咲き、繁殖力が強い植物です。
この特性が子孫繁栄につながるとされ、家紋に用いられたと考えられます。
四国の長宗我部家もこの「片喰」の家紋を用いました。
逆境に耐えて、根を張りやがて繁栄につながる。
そんな思いから宇喜多家でも「片喰」が用いられたのでしょう。
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秀家が用いた家紋とは?
一方、秀家が好んで用いたのは「児の字」です。
「児の字」は家紋というよりも旗印に使われました。
今ではあまり見なくなった「児」の旧字が使われています。
宇喜多家の祖先は百済からの渡来人と言われています。
祖先は最初、三宅氏を名乗っていました。
そこから宇喜多氏が分かれて誕生しました。
三宅氏は「児の字」の旗印を使っており、秀家もそれに倣ったと考えられます。
「児の字」の旗印はやがて、秀吉配下に入ります。
秀家の父、直家が毛利氏から秀吉に寝返ったのです。
宇喜多家は旧主の毛利攻めに加担します。
また秀家は「羽柴姓」を賜るほど豊臣政権で出世し、外様でありながら秀吉からの信頼が厚く「桐紋」の使用も許されていました。
関ヶ原の戦いで西軍についたのもうなずけますね。
きょうのまとめ
今回は宇喜多秀家の家紋のお話でした。
簡単にまとめます。
② 「児の字」を旗印に用いていた
家紋にはいろいろな意味が込められています。
「家運の上昇」、「子孫繁栄」など。
家紋は戦国時代を生き抜こうとする拠り所だったのです。
「家紋」というとカッコイイというイメージが先行します。
でも、使っていた当事者には相応の思いがあったはずです。
「生きる」ということが困難な時代。
きっと家紋にいろいろな思いを託したのでしょう。
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