上杉景勝の子孫たちは今どこに!?

叔父である上杉謙信の養子となり、米沢藩初代藩主となった上杉景勝。

越後の虎 」と異名を持つ謙信の血を引く、景勝の子孫はどのような人がいたのでしょうか。

また現在もその血は受け継がれているのでしょうか。

今回は上杉景勝の「 子孫 」と「 現在 」について調べてみました。

上杉景勝の子孫と現在

上杉景勝の死後

1604年「 上杉景勝 」は側室・桂岩院(けいがんいん)との間に長男となる玉丸をもうけます。

この玉丸が後に2代目藩主となる「 上杉定勝 」です。

景勝は1623年に米沢城で生涯を終えました。

その後は定勝が上杉家を支えていくことになったのです。

定勝には子供が多く3代目当主となったのは、

生善院(しょうぜんいん)を母とする卯松(うまつ)、後の「 綱勝 」でした。

吉良上野介(きらこうずけのすけ)の関与!?

しかし綱勝は妹の嫁いだ「 吉良義央(きらよしひさ)によって毒殺された 」という説があります。

この人赤穂浪士の討ち入りで有名な「 吉良上野介義央 」なんです。

綱勝の死後は、その吉良義央の子供である「 綱憲 」が4代目当主となっています。

毒殺説もなかったとは言えないかもしれませんが、死因は胃潰瘍であった可能性が高いそうです。

綱憲は学問所に力を入れましたが、上杉家の財政は苦しくなっていきました。

綱憲は嫡男の「 吉憲 」に家督を譲り42歳で亡くなっています。

5代目当主吉憲の嫡男・宗憲6代目)は22歳で亡くなったので、

弟の「 宗房 」が7代目を継いでいます。

しかし彼も29歳で亡くなり子供がなく、その後は同母弟の「 重定 」が8代目当主としてつぐこととなりました。

重定の苦難

重定の時代は財政難の上、大凶作、商家への打ちこわし等も起こり上杉家は大変な危機に瀕していました。

一度は幕府に藩を潰すことを進言するのですが、諌められ取り下げています。

財政逼迫の中、日向高鍋藩から養子を取り、その子が9代目当主「 上杉治憲(はるのり) 」でした。

隠居後の「 鷹山(ようざん) 」の名前の方が知られていますね。

彼は35歳の若さで隠居し、

重定の生きているうちに我が子に後を継がせるところを見せたかった 」という優しさのある人でした。

「成せば成る 成さねばならぬ何事も 成らぬは人の成さぬ成けり」

という名言を遺しています。

これは武田信玄の

「 為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなき 」

という名言を模範にしたものです。

そして10代目は重定の次男の「 治広 」になりました。

しかし、重定は治憲に後見を頼んだため、治広が表立って政権を振るうことはほとんどありませんでした。

1822年春に治憲(鷹山)がこの世を去ると治広も後を追うように亡くなりました。

江戸時代から明治時代へ

11代目は甥にあたる「 斉定(なりさだ) 」がつぎました。

そしてその嫡男である12代目当主は「 上杉斉憲(なりのり) 」です。

彼は江戸時代と明治時代の狭間で生きた人です。

藩政改革に努めた彼は、上杉鷹山以来と言われた名君でした。

しかし戊辰戦争で幕府方についたため、新政府によって領地を削られてしまいます。

明治元年家督を長男の茂憲に譲り、1889年68歳で亡くなっています。

13代目当主となった「 上杉茂憲 」は米沢藩最後の藩主です。

沖縄県令や貴族院伯爵議員として活躍しています。

その茂憲の長男として生まれたのは、「 上杉憲章 」です。ケンブリッジ大学を出て宮内庁に勤めました。

しかし憲章と次男が早生したため家督は三男の「 隆憲 」が継いだのです。

現代の当主

現在は「 上杉邦憲 」が上杉家の32代目当主となっています。

彼は、世界的にも有名な宇宙工学者です。

あの「 はやぶさ 」のプロジェクトチームの一員として活躍しました。

仕事は2006年に定年で退いていますが、上杉家の末裔ということもあり、宇宙工学や上杉家の関係で各地で講演などしているそうです。

きょうのまとめ

戦国の時代にはじまった上杉家はこうして現在も繋がっているのです。

幾多の困難を乗り越え、現在は宇宙に夢を馳せることのできる当主に恵まれています。

きっと上杉謙信も景勝も子孫が誇らしく思えていることでしょう。










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