越後の虎と異名を持つ上杉謙信の養子となり、上杉家を継いだのは
上杉景勝です。
その上杉景勝は関ヶ原の戦いにおいて、西軍つまり豊臣方でした。
しかし実際には関ヶ原の戦いには参加していません。
それなのに何故関ヶ原の合戦とつながりがあるのでしょうか。
今回は「上杉景勝」と「関ヶ原の戦い」についてその関係を調べてみましょう。
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関ヶ原の戦いへのきっかけとなる会津討伐
上杉景勝は「五大老」の1人として豊臣秀吉に仕えていました。
五大老は
・前田利家
・毛利輝元
・宇喜多秀家
そして上杉景勝の5人で当時の権力者ばかりでした。
これに対して「五奉行」という役職もありました。
五奉行は、
・増田長盛
・浅野長政
・前田玄以
・長束正家
が名を連ね、実際の政務を仕切っていました。
秀吉の死後、この五大老の筆頭である徳川家康が力を強め勝手な行いを始めたため、
五奉行の筆頭の石田三成と対立します。
景勝の家臣である直江兼続は、この頃から石田三成と交友を深めていたため、徳川家康とは敵に回ることになりました。
前田利家はこの2人の仲裁役を担っていましたが、彼も死去してしまい家康と三成の争いを止める者がいなくなってしまいました。
1600年家康は各地の大名たちに自分に着くように求めました。
しかし上杉家はこれを断ります。その上直江兼続は「直江状」という手紙を家康に出します。
その内容は家康の方針を否定し、「文句があるならかかってこい」と言ったような挑発状でもありました。
これに対して家康は上杉討伐へと向かうことになるのです。
これが「会津討伐」と言われるものです。
関ヶ原の合戦の始まり
上杉討伐に向かったため大坂城には家康の一派がいなくなりました。
この隙をついて石田三成は行動を起こし、徳川家康討伐の挙兵をします。
家康のいない間に京都の伏見城を落とします。
この件はすぐに家康に知らされ、家康は上杉討伐を諦め、大坂方面へと戻ることにしました。
しかしこのままでは背後から上杉に攻撃される危険性があったため、
伊達家と最上家に上杉を抑えるように命じます。
ここで上杉家は最上家と伊達家を相手に戦うことになります。
一方家康は関ヶ原で、石田三成の軍と戦うことになったのです。
この戦いの結果は、あちこちの大名に寝返りを打診していた家康の勝利となったことは周知のことと思います。
西軍敗北の知らせはすぐに上杉軍に伝えられ、上杉景勝は直江兼続や前田慶次を殿にして撤退しました。
最後尾を任された前田慶次はたった5人で、
圧倒するほどの敵軍を切り抜けて見事に役目を果たしたということです。
きょうのまとめ
天下分け目の関ヶ原は、上杉家が「石田三成と協力して前後から家康を襲う」という計画がことの発端となったのです。
石田三成と家康の対立によって引き起こされたものではありますが、上杉家が深く関わっていたということになります。
これは意外と知らない人が多く、特に「会津討伐」という前置きがあって関ヶ原の戦いが始まったのです。
そして上杉景勝や直江兼続の存在があったからこそ始まった戦いだったということですね。
この戦いで勝者となった徳川家康は、名実ともに天下を手中に収めたことになります。
敵対した上杉景勝は家康に謝罪し、所領が減らされてしまったものの大名家としての存続は許されたのでした。
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