井伊直政の死因とは?鉛中毒?

 

井伊直政(いいなおまさ)は、

関が原の戦いのわずか2年後に亡くなりました。

徳川四天王と言われながら、

江戸幕府の開府を見ることが出来なかったわけですから、

さぞ心残りだったことでしょう。

しかしまだ若かった直政はなぜ亡くなったのでしょうか?

今回は直政の死因について見ていきましょう。

 

直政の死因って何だったの

井伊直政の死因についてご紹介します。

鉛中毒だった?

直政の死因は関が原の戦いで負った傷が原因とされています。

関が原の戦いで敗走する島津義弘(しまづよしひろ)の軍を

追撃している時に銃弾が当たり落馬しました。

弾が当たった場所は、右肘または右肩と言われています。

左腕という説もありますが、いずれにせよどちらかの腕付近に傷を負ったことは確かなようです。

この傷が原因で破傷風(はしょうふう)肺血症(はいけっしょう)を患って亡くなったとされています。

しかし近年「 鉛(なまり)中毒説 」が有力ではないかと言われているのです。

鉛中毒とは鉛を摂取することで、嘔吐や麻痺・免疫不全などを引き起こします。

撃たれた弾丸が直政の体の中に残り、

少しずつ溶け出したことで鉛中毒で亡くなったのではないか、というのです。

というのも、直政は少しずつ衰弱して亡くなったと言われています。

破傷風の場合は傷を負ってすぐに発症するはずです。

鉛中毒ならば、少しずつ衰弱していた説明がつくのです。

実は疲労が原因

もうひとつの直政の死因とされているのが疲労です。

直政は、銃で撃たれ落馬しひどい怪我を負いながらも、

ろくに休もうとせずに関ヶ原の戦いの戦後処理に当たりました。

そのために傷の回復が遅れ亡くなったと言われているのです。

猪突猛進な直政の性格を考えると、

無きにしも非ずかもしれません。

戦後処理では、あの有名な真田幸村親子は、直政の助命嘆願で殺されることなく九度山へ幽閉になりました。

自分に傷を負わせた島津家も、直政の働きかけで領地没収なしという破格の対応を受けています。

直政は外交官としても、素晴らしい才能を持っていたのです。

けれど、きちんと休んでいたら直政は死ななかったかもしれない、

と思うと残念で仕方ありません。

直政を殺した犯人

直政を狙撃したのは、島津軍の川上忠兄(かわかみただえ)という武士に仕えていた

柏木源藤(かしわぎげんとう)という身分の低い武士でした。

100騎の軍勢で撤退する島津軍を追撃してきた直政を、

藪(やぶ)の中に隠れていた源藤が狙撃したと言われています。

大手柄を立てながらも、後に生活が苦しくなり武士から町民になっています。

直政の死を知ると、弔いのために黒の法衣を身にまとい修行の旅に出たと言われています。

なぜ源藤が弔いの旅に出たのかは分かりませんが、大手柄を立てながらも町民になった自分と直政の死の大きさに、

なんとも言えない気持ちが込み上げて来たのかもしれませんね。

 

まとめ

直政の死因について紹介しましたが、いかがでしたか?

破傷風や鉛中毒、疲労などいろいろな死因が考えられますが、

関ヶ原の戦いからわずか2年後、直政41歳。

死因は何であれ早すぎる死ですね。

 

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