先代徳川家康と三代目家光の華やかさの陰に隠れる二代目
徳川秀忠。
あまり印象がないと言われます。
エピソードも大失態をメインに語られる秀忠ですが、
実は優れた政治家であったのはあまり知られていません。
江戸幕府260年の体制を整備し、極めて冷静な判断をした徳川秀忠とはどんな人物だったのでしょうか。
どうぞ最後までご覧ください。
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徳川秀忠はどんな人?
- 出身地:遠江国 浜松
- 生年月日:1579年
- 死亡年月日:1632年(享年54歳)
- 江戸幕府260年を支える体制整備した優れた政治家だった!
徳川秀忠 年表
1579年(1歳)徳川家康の三男として生まれる。長男の徳川信康が織田信長の命令で切腹。(信康事件)
1584年(6歳)次男の秀康が豊臣秀吉の養子となり、実質家康の後継となる。(次男秀康は後に35歳で他界)
1595年(17歳)浅井三姉妹の三女、江姫と結婚。
1600年(22歳)関ヶ原の戦の前、主力3万7千の兵を率い中山道を進み、真田昌幸、真田幸村父子の上田城を攻めるのに手間取り(第二次上田城の戦)、関ヶ原の決戦には間に合わず、大失態。
1603年(25歳)父徳川家康が征夷大将軍となる。
1605年(27歳)父徳川家康から征夷大将軍を譲られ、2代将軍となる。
1607年(29歳)娘、和子誕生。
1614年(36歳)大久保長安事件に関与した疑いにより家老大久保忠隣を改易。また弟で越後国高田城主、松平忠輝を改易。
1615年(37歳)大坂冬の陣、大坂夏の陣では、総大将として豊臣家(豊臣秀頼)を攻め滅ぼす。
1620年(43歳)娘、和子が、後水尾天皇に入内。天皇家と姻戚関係となる。
1623年(45歳)隠居し、子の家光に将軍職を譲る。
1632年(54歳)病没。
徳川秀忠の生涯
三男である徳川秀忠が二代目将軍となった理由とは?
徳川秀忠は三男であるにも関わらず、二代目将軍となりました。
もともとは正室である築山殿の子、長男信康が後継ぎ第一候補でした。
しかし、当時徳川家康の主君織田信長から武田軍との謀反の疑いをかけられ、信康は処刑されます。
また次男秀康は豊臣秀吉の養子(人質)として家を離れていました。(次男秀康は後に35歳で他界)
結果、三男である徳川秀忠が後継とされました。
ただし、家康にはその他多くの子供もいましたし、当時次男秀康もまだ健在ではありました。
そのため、なぜ秀忠が二代目将軍となったか、理由は定かではありません。
ただ、一説によると秀忠を生んだ母、西郷局は非常に優しい女性で目の不自由な人の慈善活動をしていました。
家康はこの西郷局をとても大事にしていたそうです。
このことが二代目を決めるにあたって大きく左右した可能性はあります。
側室を設けなかった将軍
徳川秀忠は正式には側室は設けませんでした。
正室には美人浅井三姉妹の三女、江姫でしたが、6歳年上の姉さん女房でもあり、気が強かったそうです。
秀忠が気を使ってか、正式には側室は設けていません。(但し、非公式で大奥の下級女中である静という女性との間に男子をもうけていました。)
秀忠の性格は真面目で温厚な性格だと言われています。
このような性格が側室を設けなかった理由かもしれません。
ただ、側室はいなくても、正室江との間には7人の子供を授かっており、三代目将軍家光が産まれています。
長女千姫は岡山藩池田家、二女珠姫は加賀前田家、五女和子は天皇家に嫁いでいます。
三代目将軍家光をはじめ、子どもたちは徳川幕府を支える重要な人材となっていきました。
2度の大失態!
徳川秀忠があまり評価されなかった理由の一つとして、2つの有名な大失態がありました。
まず一つは1600年、関ヶ原の戦いです。
父家康の一世一代の大決戦、関ヶ原の戦いで遅刻してしまったのです。
関ヶ原の戦の前、主力3万7千の兵を率い中山道を進んでいました。
真田昌幸、真田幸村父子がたてこもる上田城を攻めるのに時間がかかり、手間取ってしまいます。
結果、世紀の大決戦、関ヶ原の決戦には間に合わない大失態、父家康から大目玉となったそうです。
そして大坂の陣。
1614年の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は徳川の総大将として約4万の大軍を率いて出陣。
前回の大失態は繰り返すまいと大急ぎで進軍します。
江戸から伏見まで17日間で到着するという速さでした。
結果、将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかったと言われています。
このように2度の大失態が徳川秀忠の評価を下げる背景とされています。
実は有能な政治家?
実直で真面目、勉強好きな徳川秀忠は優秀な家来を多く抱えていました。
また父家康の言いなりという性格で知られていますが、実は非常に有能な面もあります。
三代目家光が整備したと言われる公家諸法度や武家諸法度などの諸制度は実は秀忠が基盤を築いています。
また、父家康死去後、自分に従わない弟(松平忠輝)や譜代大名の本多正純など城や領地を没収したりしています。
さらに娘の和子を後水尾天皇に嫁がせて、皇室や公家たちの関係も構築し、政治的な手腕を発揮しています。
・紀伊
・水戸
に配置して徳川御三家の体制を整えたことも、徳川260年の基盤を創り上げた施策の一つです。
このように、政治家としては非常に堅実、冷静な判断をし、三代目家光に培った基盤を継承させたとも言えそうです。
徳川秀忠の性格について
真面目で温厚?
天下を取った初代徳川家康、そして有名な三代目徳川家光。
残念ながら二代目徳川秀忠はあまり脚光は浴びていません。
秀忠の性格は真面目で温厚な性格だと言われています。
もともと徳川秀忠は三男で二代目将軍となるとは思ってもなかったかもしれません。
長男信康、次男秀康はいずれも死去し、急遽秀忠が後継ぎとなります。
母の西郷局は目の不自由な人に慈善活動をするなど非常に優しい方だと言われています。
さらに正室は美人浅井三姉妹の三女江姫で、年上女房でもあり、秀忠は側室をもうけていません。
秀忠はそのような背景、環境があったことが、真面目で温厚な性格となったのかもしれません。
性格がわかるエピソード
徳川秀忠が13歳の時、勉強している部屋に、牛が乱入して周りが大混乱になったことがありました。
しかし、徳川秀忠のみ冷静に講義を聞き続けていたそうです。
さらにあるとき、能を鑑賞しているときに大きな地震が起きたことがありました。
このときも、冷静に素早く指示を行い、混乱と被害を最小限に抑えることがあったそうです。
一般的に真面目で温厚というイメージが強い秀忠ですが、冷静沈着、的確な判断もできる人物であったようです。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
徳川秀忠とは?簡単にまとめると
① 真面目で温厚な性格
② 側室は設けなかった
③ 関ヶ原の戦い、大阪冬の陣では大失態
④ 江戸幕府260年の基盤を創り上げた優秀な政治家
と言えるのではないでしょうか。
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