徳川秀忠と江姫の7人の子供たち

 

織田信長の血筋を引く、美人浅井三姉妹の三女、江姫。

3度目の結婚で徳川幕府2代目将軍、徳川秀忠とくがわひでただとの間に7人の子供をもうけました。

その中には3代目将軍、徳川家光もいます。

今回は徳川秀忠と江姫の子供たちについてお伝えします。

 

美人浅井三姉妹とは

徳川秀忠

徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
出典:Wikipedia

かの有名な浅井三姉妹は北近江の戦国大名浅井長政と、織田信長の妹、との間にうまれました。

・長女:茶々ちゃちゃ

・次女:はつ

・三女:ごう

です。

三人とも戦国の世に生まれ、激動の人生を歩みます。

三姉妹の父、浅井長政と母の市は兄の織田信長・豊臣秀吉軍に攻められ自害します。

浅井長政は織田信長の家臣でしたが、親交のある朝倉家を攻める織田信長に反旗を翻したためです。

三姉妹は父と母亡き後、豊臣秀吉の政略結婚として様々な人生を歩んでいます。

長女の茶々姫(のちの淀殿)は父母の仇、豊臣秀吉の側室となり、秀頼を出産します。

次女の初姫は豊臣秀吉の計らいで近江大津藩主、京極高次の正室となります。

そして三女の江姫は2度の結婚を経て、徳川幕府2代目将軍徳川秀忠の正室となります。

 

江姫の3度の結婚

江姫は3度の結婚を経験しています。

最初の結婚は豊臣秀吉の政略にて、江姫従兄弟にあたる織田信長の次男である尾張大野城(常滑市)の城主、佐治一成と結婚します。

しかし、佐治一成が豊臣秀吉の敵方に味方したため、豊臣秀吉に離縁させられます。

2度目は秀吉の養子(秀吉の甥にあたる)、丹波国亀山城主(現:京都府亀岡市)、豊臣秀勝と結婚します。

しかし、この豊臣秀勝は朝鮮出兵の際、朝鮮国の巨済島(コジェド)で病死してしまいます。

その後3度目の結婚として、徳川幕府2代目将軍徳川秀忠の正室として7人の子供をもうけました。

なお、江姫は2度目の結婚の際、豊臣秀勝との間に娘、完子さだこをもうけます。

この豊臣定子は後に関白となる九条幸家の元に嫁ぎます。

豊臣完子と九条幸家の子孫が大正天皇皇后である貞明皇后であり、昭和天皇の母となります。

つまり、江姫の浅井家、織田家の血筋は現在の天皇、皇室にもつながっているのです。

 

徳川秀忠と江姫の子供たち

7人の子を授かった江姫ですが、

7人とも全てが江姫の実子であるかは不明な部分もあり、いまだ研究が進められています。

以下、徳川秀忠と江姫の子供と言われている7人の人生の歩みです。

長女 千姫

長女である千姫は、わずか7歳で従兄弟である豊臣秀頼に嫁ぎます。

大坂の陣にて豊臣秀頼が自刃後、徳川四天王のひとり本多忠勝の孫、播磨姫路新田藩主、本多忠刻と再婚をします。

本多忠刻との間に、一女一男を産みますが、長男の幸千代はわずか3歳で病死します。

長女の勝姫は岡山藩池田光政の正室となり、以降、岡山藩池田家の系譜は千姫の子孫となります。

 

二女 珠姫

二女珠姫たまひめは、徳川家と加賀藩前田家の政略結婚により、わずか3歳で前田利家の4男で3代藩主である前田利常に嫁ぎます。

24歳で病没するまで3男5女を育てました。

長男の光高は加賀前田藩3代藩主となり、以後、加賀前田家では江姫の血が代々次がれていくことになります。

 

三女 勝姫

三女勝姫は、徳川家康の次男で結城秀康の子である、松平忠直の正室となります。

夫、松平忠直は大坂夏の陣で、かの真田幸村を討ち取り戦功をあげます。

しかし、褒美がなかったことに不満を覚え家臣、領民を殺すなど乱行が目立つようになります。

心の病を発症し、妻である勝姫を斬りつける事件を起こし豊後へ配流となります。

勝姫は江戸で子どもたちを養育し、長男仙千代(松平光長)には越後高田26万石が与えられ、越後高田藩・初代藩主となります。

 

四女 初姫

四女初姫は、生まれてすぐに江姫の姉初の養女として京極家にはいります。

京極高次と側室との間に生まれた京極忠高と初姫は結婚しますが、初姫は29歳の若さで亡くなってしまいます。

しかし、初姫が亡くなる時、夫である京極忠高は相撲見物をしていて気付かなかったそうです。

その振る舞いに激怒した父徳川秀忠は、葬儀一切を徳川家で行い、京極家の参列を許しませんでした。

 

五女 和子

五女和子は12歳の時に後水尾天皇に入内して興子内親おきこないしんのうを生みます。

この興子内親が即位し第109代天皇、明正めいしょう天皇となり、和子は天皇の母となります。

明正天皇は、859年ぶりの女帝となりました。

 

長男 家光

長男家光は父秀忠の跡を継ぎ、徳川幕府3代将軍となります。

なお、家光が生まれる前に長男・世継ぎとして長丸が生まれますがすぐに亡くなっています。

 

次男 忠長

次男忠長は、成人して駿河を領有したことから駿河大納言と呼ばれるようになります。

しかし、兄であり徳川3代目将軍である徳川家光との確執から罪を着せられ、自害します。

 

【番外編】徳川秀忠の側室、子孫について

徳川秀忠には側室がいませんでした。

江姫は秀忠より6歳年上でもあり、秀忠が気を使ったとも言われています。

しかし秀忠には大奥の下級女中である(秀忠の乳母であった大姥の侍女)という女性との間に男子をもうけていました。

この静との間の子供が信濃 高遠城主であった保科正光の養子となり、以降、会津藩主となった保科正之でした。

保科正之は会津の産業振興で実績を挙げ、三代将軍家光や四代将軍の家綱に優秀な補佐として名を挙げました。

 

きょうのまとめ

徳川秀忠と江姫の子供たちについて見てきましたが、いかがでしたでしょうか

徳川秀忠と江姫の子供たちは、

① 7人の子供をもうけたと言われていますが、すべては実子かどうかは不明

② 徳川3代目将軍家光も含め、徳川幕府を支える重要な人材となった

③ 会津藩主保科正之は下級女中である静との間に生まれた子

と言えるのではないでしょうか。

徳川秀忠については、他にも色々な記事があります。

よろしかったらご覧になってみて下さい。

 
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