東條英機とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

1948年12月、第二次世界大戦の終結に伴う東京裁判において、「A級戦犯」の罪に問われ、生涯を終えることとなった

東條英機とうじょうひでき

日米開戦時に首相、陸軍大臣を務め、日本を戦争に踏み切らせた張本人として語られています。

A級戦犯のレッテルから、とんでもない極悪人だと思っている人もいるのではないでしょうか?

しかし実情を辿ってみると、多くの人がその人となりを誤解していることがわかります。

東條英機とはどんな人物だったのか、彼はなぜ戦争を主導したのか…。

その生涯から探っていきましょう。

 

東條英機はどんな人?

プロフィール
東条英機

東条英機
出典:Wikipedia

  • 出身地:東京市麹町区(現・千代田区)
  • 生年月日:1884年7月30日
  • 死亡年月日:1948年12月23日(享年64歳)
  • 太平洋戦争を前に、アメリカとの交渉にあたった首相、陸軍大臣。戦後、A級戦犯の罪で絞首刑となった。

 

東條英機 年表

年表

西暦(年齢)

1884年(1歳)東京市麴町区(現・千代田区)にて、陸軍歩兵中尉・東條英教の三男として生まれる。

1905年(22歳)陸軍士官学校を360人中10番目の成績で卒業。

1909年(26歳)妻・かつ子と結婚する。

1912年(29歳)3度目の受験で陸軍大学に合格する。

1915年(32歳)陸軍大学を上位の成績で卒業する。和田亀治歩兵大佐の推挙で陸軍兵器廠・陸軍省の配属となる。

1919年(36歳)駐在武官としてスイスに派遣される。

1921年(38歳)ドイツの駐在武官に移る。南ドイツ・バーデン=バーデンにて、永田鉄山らと満蒙問題の解決を主とした「バーデン=バーデンの密約」を結ぶ。

1922~33年(39~50歳)陸軍大学教官、陸軍歩兵第1連隊長、参謀本部総務部第1課長、陸軍省軍事調査部長などを歴任。満蒙問題の解決へ向けた一夕会が結成され、31年、満州事変を決行。

1935年(52歳)関東軍憲兵隊司令官として、満州へ赴任。満州にて共産主義の推進運動を行う将校を検挙する。

1936年(53歳)2・26事件の発生に伴い皇道派を検挙し、関東軍の混乱を鎮圧する。

1937年(54歳)関東軍参謀長に就任。日中戦争の勃発に伴い察哈爾作戦を決行し、中国への侵攻を進める。

1938年(55歳)陸軍次官、陸軍航空本部長に就任。

1940年(57歳)第2次近衛内閣にて陸軍大臣に就任する。

1941年(58歳)対米交渉の難攻に伴い近衛文麿首相が辞任し、内閣総理大臣に就任。戦争回避のためアメリカに妥協案を提示するも交渉が頓挫し、太平洋戦争開戦にいたる。

1943年(60歳)東京にて「大東亜会議」を開き、欧米の植民地支配から脱却したアジア各国の政治的連合を宣言する。

1944年(61歳)戦局が悪化するに従い、軍の指揮権を握るため陸軍参謀総長を兼務し、批判が殺到。マリアナ沖海戦、サイパンの戦いでの大敗をきっかけに内閣総辞職に追い込まれる。

1945年(62歳)8月15日の終戦を受け、次男以下を分家、養子に送るなどの処置を行う。戦犯としての逮捕を悟り、拳銃自殺を図るも失敗。巣鴨プリズンに収容される。

1948年(64歳)極東国際軍事裁判(東京裁判)にてA級戦犯とされ、絞首刑の判決が下される。12月23日、死刑執行により生涯を終える。

 

青少年期

青少年時代の東條英機はいったい、どのようにして育ったのでしょうか。

イメージに反して真面目一貫な様子に驚く人も多いはずです。

エリート軍人の父の元に生まれる

1884年、東條英機は東京市麹町区(現・千代田区)にて、陸軍歩兵中尉・東條英教ひでのり三男として生まれます。

三男といっても、長男と次男は幼くして亡くなっており、東條は実質長男の扱いで育てられました。

父・英教は陸軍大学を首席で卒業したエリート軍人であり、夢は陸軍大将になること。

しかし思うように出世できず中将止まりで予備役となってしまったため、その夢を東條に託すこととなります。

「努力即権威」を信じ邁進

父の期待を一身に背負い軍人への道を歩み始めた東條でしたが、彼は父のような天才ではありませんでした。

陸軍幼年学校入学時の成績はいいところ中の下という感じ。

しかし東條はなにより努力の人で、22歳で陸軍士官学校を卒業するころには、360人中10番目という上位の成績を修めるようになっています。

卒業後は少尉、中尉と順調にキャリアを積んでいくなか、父の希望もあって陸軍大学を受験。

当時、大佐より上の将官を目指すためには陸軍大学を出ていることは必須だったのです。

ただ、東條はこの陸軍大学の受験に二度失敗しています。

それでも努力し続け、29歳のころ、三度目の受験にして合格をもぎ取るのです。

士官学校時代の先輩である永田鉄山、小畑敏四郎としじろう、岡村寧次やすじらは、東條の受験のために勉強会も開いたのだとか。

真面目に努力し続ける人となりが、先輩からも慕われていたのでしょう。

そんな東條の座右の銘は努力即権威どりょくすなわちけんい

まさに彼の陸軍学校時代を体現したような言葉ですね。

 

満蒙問題への注力


32歳で陸軍大学を卒業すると、東條は駐在武官としてスイス、ドイツへ派遣されることになります。

この時期の出来事で特に印象的なのが、1921年に南ドイツの都市・バーデン=バーデンにて交わされた「バーデン=バーデンの密約」です。

これは前述の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次らとの誓約であり、内容は以下のようなものでした。

・陸軍上層部を牛耳っている長州閥の打倒

満蒙まんもう問題の解決

このうち、のちに展開していくのが満蒙問題です。

陸軍はこのころ、日露戦争で権益を得た満州を切り口に中国方面への侵攻を進めていこうとしていました。

しかし1920年ごろから中華民国が国権の回復を図っており、日本と一触即発の状態に。

さらに日本が権利をもつ南満州鉄道の経営不振などもあり、満州の権益は危うくなっていたのでした。

この満蒙問題解決に着目したバーデン=バーデンの密約は、東條の帰国後、陸大出身者を中心に作られた一夕会いっせきかいに繋がり、1931年の満州事変まで展開します。

満州事変は関東軍が南満州鉄道を自ら爆破し、それを中国の仕業に仕立てて、満州全土を占領してしまった事件。

当時の日本は世界恐慌の影響にさらされており、満州を開拓することで新たな資源が確保できるという希望をもっていました。

陸軍はそれ以前から満州を占領する計画を立てていたものの、その大義名分を得ることで、満州の占領を正当化したわけですね。

東條は主に事務的な面でこの計画をサポートしたといわれています。

 

連隊長としての東條

一夕会の暗躍と同じころ、東條は陸軍第1歩兵連隊長を務めていたことがあります。

この第1連隊での逸話がまた、東條の人となりをよく物語るものとなっているんです。

通常、陸軍の連隊には連隊長のほか、細かく班分けされた兵をまとめる中隊長がいます。

そのため、トップの連隊長とは直接顔を合わせる機会のない兵士も多いんですよね。

特に入隊したばかりの兵卒などは、儀式のときに演説している姿を遠くから見るぐらいなもので、いうなれば雲の上の存在でした。

しかし東條はそんな連隊長の常識をくつがえし、第1連隊の兵士すべてに気を配っていたという話です。

新しく入ってくる兵卒は名前や顔だけでなく、家庭環境などもすべて記憶しており、中隊長にも自身の隊に加わる兵卒の身の上を把握するよう指示していました。

こういった情報から兵に与える食事や、陸大受験者の任務を減らすなどの配慮もしていたのだとか。

兵卒一人一人と実際に対面して話をすることも多く、「人情連隊長」の異名で通っていたといいますよ。

 

満洲への赴任

1935年になると、東條は満州の関東軍憲兵隊司令官に就任します。

このころの満州での活躍が、東條のキャリアにおいて重要なターニングポイントとなるのです。

共産主義者と皇道派の検挙

当時、ロシアの共産主義革命をきっかけに生まれた国際組織・コミンテルンの影響を受け、日本でも共産主義を扇動しようとする団体が現れるようになっていました。

資本主義で成り立っている日本とは真逆の考え方のため、政府はこれを危険分子と見なし、厳しく取り締まります。

東條も関東軍内で多数の共産主義者を検挙し、その功績が認められつつありました。

また、このころ陸軍内に皇道派という新しい派閥が生まれており、1936年に政府主要人物が襲撃される「2.26事件」という、クーデター未遂が発生します。

(※皇道派:政府の主要人物を排除して、天皇が直接統治を行うことを望む派閥。主に青年将校を中心に結成された)

この事件に際し、関東軍でも皇道派が混乱を巻き起こそうとしますが、東條はこれを鎮圧し、当事者らを検挙しています。

これらの活躍から、東條の指導者としての資質は一気に注目されていくこととなるのです。

ちなみに皇道派と対比して、東條を始めとする陸大出身者を中心とする派閥は「統制派」と呼ばれていました。

日中戦争へ

1937年、北京西南の盧溝橋ろこうきょうにて、日本軍と中国軍が衝突する「盧溝橋事件」が勃発しました。

これを皮切りに、日本は中国への侵攻を開始。

東條は司令官を任され、「東條兵団」を率いて破竹の勢いで中国を侵攻していくこととなります。

これが、のちにアメリカを刺激する原因となってしまうんですよね…。

オトポール事件

満州赴任時代にも、東條の人柄が垣間見える逸話がひとつあるので紹介しておきます。

1938年3月、ナチス・ドイツから迫害を受けたユダヤ人の集団がシベリア鉄道を使い、ロシアと満州の国境にあるオトポール駅まで逃げてきました。

彼らはそのまま満州を南下し、アメリカの居留地である上海租界を目指すつもりでしたが、ドイツを刺激することを恐れた外交部によって満州への入国が拒否され、足止めを食らっていたのです。

これを聞きつけた樋口季一郎少将はユダヤ人たちに食料や衣服などを提供。

そのうえで南満州鉄道総裁に許可を取り付け、彼らを上海まで送り届けるルートを確保しました。

当然、日本と同盟を結んでいたドイツからは猛抗議が寄せられます。

このとき、関東軍の代表として交渉にあたったのが東條でした。

東條は樋口少将から事情を聞くと、その言い分に同意し

「極めて人道上の配慮によって行われたもの」

と、強気の姿勢でドイツに返答したといいます。

以降、1941年までに約2万人のユダヤ人が上海まで逃れたという話。

この一件に関して、東條のひ孫にあたる英利さんは、テレビ番組で共演したポーランドの方から

「あなたのひいおじいさまは、とても素晴らしいことをしたのよ」

と、涙ながらに感謝を述べられたと語っていました。

 

中国からの撤兵問題

1941年のこと、日中戦争は、中国がアメリカやイギリスから物資の補給を受けている関係で、予想以上に難攻していました。

この局面に際し、日本は援蒋えんしょうルート」という輸送路を遮断し、中国への補給を止めてしまう作戦に出たのです。

すると反発したアメリカは、日本への石油の輸出を止め、中国からの日本軍全面撤退を要求してきます。

近衛文麿首相との対立

アメリカとの戦争を避けたいと考えた近衛文麿このえふみまろ首相は、このとき陸軍大臣になっていた東條に中国からの撤兵をそれとなく促すのですが…。

東條は

「撤兵などすれば、侵略戦争をしていると認めることになってしまう」

と断固反対。

これは東條個人というよりは、陸軍の総意を述べる立場としての意見だといいます。

兵たちは正しいと思って戦争をやっているのだから、簡単に退かせることはできない…といったところでしょうか。

陸海軍が提出した「帝国国策遂行要領」によって、10月上旬に交渉がまとまらなければ、対米開戦に踏み切ることはすでに決められていました。

そしてこのやり取りが行われたのが行われたのが10月14日の話。

万策尽きたと感じた近衛首相は、ここで内閣総辞職を決意することとなります。

突然の内閣総理大臣就任

近衛内閣の解散を受けて次の首相として候補に挙がったのが、皇族出身の陸軍大将・東久邇宮稔彦王ひがしくにのみやなるひこおうでした。

皇族の血を引くこの人ならば、陸海軍を一手にまとめることができる。

多くの人がそう考えたゆえの人選だったのですが、ここで異論を唱えたのが内大臣・木戸幸一でした。

木戸が首相に推したのは、なんと開戦派の東條

もちろん、このまま戦争に踏み切ってしまえということではなく、アメリカとの戦争を止められるのは東條だけだと、木戸が感じたためです。

・東條は開戦派の主導者であり、開戦派からは絶対的な支持がある

・東條にとって昭和天皇の命令は絶対であり、天皇が命じれば東條も戦争回避に全力を尽くすはず

この2点の理由から、木戸は独断で天皇の許可を得て、東條を陸軍大臣のまま、首相に就任させてしまうのです。

昭和天皇から首相就任を言い渡された際は、東條本人が一番驚いていたといいますよ。

対米交渉の決裂

東條は

「我々は人格だが、お上は神格だ」

と言い、天皇を神にも近い存在として敬っていました。

首相に任命され、天皇の望みが戦争回避だと知ると、自身の意見を急転回させ、戦争を避けるための道を模索し始めます。

結果、東條はアメリカに対し、

「すぐには無理だが、長期的なスパンをかけて中国から撤兵する」

という趣旨の妥協案を提示しました。

しかし、アメリカは一歩も譲らず、中国からの全面撤兵を強固に主張。

それどころか

・中国においては、アメリカが支援していた中国国民党以外の政権を認めない

・日独伊三国軍事同盟の実質的破棄(日本はアメリカを牽制するため、ドイツ・イタリアと同盟を結んでいた)

など、日本側に不利な要求がこれでもかと提示されます。

これがアメリカ国務長官コーデル・ハルによる「ハル・ノート」という交渉文書。

ルーズベルト大統領は日本との開戦を望んでいたため、このような無理強いをしてきたのです。

アメリカの世論としては

「ヨーロッパや中国など、自国から離れた場所で行われている第二次世界大戦にわざわざ参加しなくてもいいのでは…?」

というような反対意見も多かったため、ルーズベルト大統領は日本の先制攻撃を促して、自衛戦争を装おうとしたのです。

ハル・ノートをアメリカからの最後通牒と受け取った東條は、もはや避けられないとばかりに、日米開戦に臨む決意をします。

東條は天皇の意向に添えなかった不甲斐なさを悔やみ、開戦決定の奏上を涙声になりながら行ったという話です。

 

太平洋戦争

太平洋戦争は1941年12月8日の真珠湾攻撃に始まり、日本の連戦連勝で幕を開けました。

しかし真珠湾攻撃がアメリカの戦意を削ぎ、早期講和へと導く前提で行われたように、戦争が長期化すれば日本が不利なことは明らかでした。

開戦当初の軍事力はわずかに日本が勝っているものの、物資の輸入をアメリカに頼っていた以上、その枯渇は免れず、さらに生産力もアメリカのほうが圧倒的に上。

こういった事情から、1942年のミッドウェー海戦の大敗を境に戦況が逆転し、日本がジリジリと敗戦へと追い込まれる展開となっていきます。

不利になる戦況のなかで…

不利になる戦況下で東條の戦争指揮能力は徐々に疑われ始め、東條は首相としての権威を保つ政策に出る必要がありました。

そこで1943年11月に行われたのが、タイや中華民国を始めとする、アジア各国を集めた「大東亜会議」です。

ここで東條は、アジア各国を植民地とする欧米諸国を追い払い、各国の独立を支援して新たな政治的連合を築いていくという「大東亜共同宣言」を発表。

植民地支配からの解放という正義の名のもとに、アメリカへの攻撃の正当性を訴えたわけですね。

また当時の陸軍は

・陸軍省:軍の人事、財政、武器などを管理する

・参謀本部:戦争の際の軍の指揮を担当する

というようにふたつの組織に分かれており、これにも問題がありました。

陸軍省は政府の支配下に置かれた組織ですが、参謀本部は政府には属さない天皇直轄の組織。

軍に指揮を下せるのは天皇の特権で、これは統帥権とうすいけんと呼ばれていました。

参謀本部はこの統帥権を盾に自分たちの不利をひた隠しにし、泥沼化する戦況が政府に詳しく伝えられていなかったのです。

東條はこの参謀本部を自身のコントロール下に加えるべく、杉山元参謀総長を辞任させ、自らが参謀総長に就任することにします。

こうして東條が内閣総理大臣、陸軍大臣、参謀総長の三職を兼任するという異例の事態が発生。

統帥権はそもそも、政府に軍事主導権を握らせるのを良しとしないために設けられたものであり、この三職兼任をもって、東條はさらなる批判にさらされることとなります。

どれだけ批判されても、自分が直接軍を指揮しないともうどうにもならないと、東條は考えていたのでしょうね。

内閣総辞職

陸軍の主導権を握った東條は、太平洋戦争の継続に不可欠な「絶対国防圏」を設定し、特にマリアナ諸島に集中して守備を固めるよう軍を指揮します。

しかしそれもむなしく、1944年6月、マリアナ沖海戦において日本軍が惨敗。

さらに続けてサイパンの戦いにも敗北を喫し、東條が死守すると掲げた絶対国防圏はもろくも崩れ去ることに…。

再び強い批判にさらされた東條は、内閣の人事異動によって危機を収束させようと試みますが、組織内で東條の指示に従う者はすでにほとんどおらず、頓挫してしまいます。

こうして1944年7月18日、東條内閣は総辞職するにいたるのです。

 

終戦


終戦へと向かう政府の気運に対し、東條は孤立しながらも断固として戦争継続、徹底抗戦の姿勢を見せていました。

たとえ天皇への忠義が絶対であったとしても、国のためを考えて間違っていると思えば、意に背いてでも断行する。

それもまた勤皇であると、東條は考えていたのです。

しかし昭和天皇が終戦の聖断を下すと

「ご聖断ありたる以上、やむを得ない」

といい、その意向に従いました。

終戦を受けた東條は…

終戦を受けてからの東條は、連合国軍による逮捕を覚悟し、次男以下の子どもたちを分家、養子に出すなど、家族に被害が出ないよう配慮します。

妻のかつ子にも、実家へと戻るよう促したといいますが、かつ子は最後まで夫に付き従うことを望みました。

そして、逮捕が確定した9月11日のこと、東條は自身の心臓を拳銃で撃ち、自殺を図るのです。

しかし急所を外していたため、連合国軍の治療によって一命を取り留めることに。

確実に死ねる頭を撃たなかった理由は、ぐしゃぐしゃになった顔をさらされるのを嫌ったためだといわれています。

こうして巣鴨プリズンに収容された東條は1948年まで、被告として極東国際軍事裁判(東京裁判)に出廷することとなるのです。

東京裁判

東京裁判において、その他の被告が責任転嫁を行うなか、東條は一切自己弁護を行いませんでした。

東條が被告として述べたことは大きく以下の2点。

・戦争は内閣や軍統帥部が決定したことであり、天皇陛下は渋々同意されただけ。よってこの戦争の責任はすべて私にある

・太平洋戦争は国益を侵されそうになったがゆえの自衛戦争であり、国際法には抵触していない 

結果として、この裁判で東條はA級戦犯となりますが、昭和天皇はこれらの証言もあって、刑を免れることになりました。

裁判でも自己を顧みず、天皇を守ることに尽力したのですね。

死刑執行

死刑執行に際しても、東條は毅然とした態度を崩しませんでした。

獄中では教誨師きょうかいしの影響から仏教を学ぶようになり、その教えのなかに「人生の根本問題がある」とまで語った東條。

絞首台に上がる際は、

「これをきっかけに、アメリカにも仏法が伝わっていくかと思うと、それもまたありがたいと思うようになった」

と発言しています。

こうして1948年12月23日、東條英機は64歳にして生涯を終えることとなるのです。

 

きょうのまとめ

長らく、戦争を主導した極悪人として語られてきた東条英機。

しかしその生涯を辿ってみると、極悪人どころか優れた人格者だったことがわかります。

東條だけが悪く言われ続けてきたのは、真面目な彼が一切、責任転嫁をしなかったためでもあるのかもしれません。

そう思うと、より心苦しいものを感じさせられますね…。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 東條英機は無類の努力家。陸軍幼年学校入学時は振るわなかった成績を、士官学校卒業時には360人中10番目までに上げている。陸軍大学校受験にも三度挑戦し、猛勉強の末合格した。

② 連隊長時代は連隊に所属する兵士の身の上をすべて把握し、一人一人と対話する姿勢から「人情連隊長」と呼ばれた。そのほか、ドイツで迫害を受けた満州にユダヤ人を受け入れるなど、人情味を表す逸話は多い。

③ 日米交渉においては、中国からの撤兵に反対する開戦派だった。しかし首相に就任し、天皇から戦争回避に励むよう命が下ったことで、戦争回避に尽力するようになった。

④ 太平洋戦争中は首相、陸軍大臣に次いで参謀総長を兼任することで権威をコントロールしようとする。しかし自ら指揮を執った絶対国防圏の崩壊をもって、内閣総辞職を余儀なくされることに…。

⑤ 東京裁判においては一切自己弁護を行わず、天皇の無実と、自身が全責任を負うことを訴えかけた。

東條英機はただ天皇に忠義を誓い、国のために最善を尽くした人でした。

「戦争を主導した」などと言われますが、ただ当時の日本が戦争を止めることができない状況下に置かれていただけの話なのではないでしょうか。

 
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