近衛文麿とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

昭和中期、日中戦争の局面において、3度の内閣総理大臣を任された政治家

近衛文麿このえふみまろ

太平洋戦争の原因とも目される諸政策から、A級戦犯の罪に問われ、服毒自殺を謀った悲劇の首相です。

彼が下したどのような決断によって、日本は戦争の深みにはまっていったのでしょう。

近衛文麿とは、いったいどんな人物だったのか。

その生涯に迫りましょう。

 

近衛文麿はどんな人?

プロフィール
近衛文麿このえふみまろ

大礼服に勲一等瑞宝章を佩用した近衞
出典:Wikipedia

  • 出身地:東京市麴町区(現・千代田区)
  • 生年月日:1891年10月12日
  • 死亡年月日:1945年12月16日(享年54歳)
  • 昭和期に3度に渡り、内閣総理大臣を任された政治家。日中戦争を止められず、太平洋戦争の原因を作ったと評価される。

 

近衛文麿 年表

年表

西暦(年齢)

1891年(1歳)東京市麹町区(現・千代田区)にて、公爵・近衛篤麿あつまろの長男として生まれる。

1904年(13歳)父篤麿が死没。近衛家を相続する。

1909年(18歳)学習院中等科を卒業。第一高校(現・東大教養部)英文科へ進む。

1912年(21歳)東京帝国大学哲学科へ入学。のちに京都帝国大学法科大学へ転入する。

1916年(25歳)公爵の世襲で貴族院議員となる。

1917年(26歳)京都帝国大学を卒業。

1919年(28歳)全権・西園寺公望に随行し、パリ講和会議に参加。

1921~22年(30~31歳)日本青年館を設立し、理事長となる。民間外交団体「東亜同文会」の副会長に就任。

1927年(36歳)公爵、侯爵を中心に「火曜会」を設立。幹事を務める。

1931年(40歳)貴族院副議長に就任。

1933年(42歳)貴族院議長となる。

1934年(43歳)アメリカを訪問。ルーズベルト大統領や、国務長官コーデル・ハルと会談する。

1937年(46歳)内閣総理大臣となる。同年、日中戦争が勃発。

1938年(47歳)第一次近衛声明を発表し、中国との講和機会を閉ざす。国家総動員法を施行。戦時体制を整えていく。

1939年(48歳)中国との早期停戦が実現せず、内閣総辞職。

1940年(49歳)第二次近衛内閣が成立。日独伊三国同盟を締結する。

1941年(50歳)日ソ中立条約を締結する。同年、第三次近衛内閣の組閣にいたるも、日米開戦の局面を迎え、総辞職する。

1945年(54歳)太平洋戦争の終戦を受け、鈴木貫太郎内閣が総辞職。東久邇宮ひがしくにのみや内閣にて、国務大臣となる。GHQ総司令部からの出頭命令を受け、12月16日未明、服毒自殺する。

 

幼少期

1891年、近衛文麿は東京市麹町区(千代田区)にて、公爵・近衛篤麿あつまろの長男として生まれます。

近衛家は公家でも最高位に位置する五摂家の筆頭。

豊臣政権のころ在位にあった後陽成ごようぜい天皇の12世孫にあたるという、この上ない家格でした。

それでいて近衛は、少し陰のある幼少期を過ごすことになるのですが…。

父母の早逝・継母との確執

近衛の実母・衍子さわこは、近衛の生後間もなくして死没。

父はその妹にあたる貞子ともこと再婚しました。

継母は近衛の存在によって、自身の生んだ子が家督を継げないことに不満を抱いており、それゆえ母子の関係はよくなかったといいます。

もっとも、近衛は貞子が実母だと思い込んでおり、真実を知るのは大人になってからの話。

さらに13歳のころに父親が亡くなり、家督と共に多額の借金を相続したことも重なって、苦悩の幼少期を過ごすこととなりました。

首相になってからの、どこか弱腰とも取れる政策には、このころの人格形成も関係しているのかもしれません。

高校・大学での思想形成

教育機関に関しては、学習院中等科を卒業。

華族の慣例では、このあと高等科へ進むのが通常の流れです。

しかし近衛はあえてその道を選ばず、第一高校(現・東大教養部)英文科へ進学します。

その後は、東京帝国大学哲学科へ入学するも、その年のうちに京都帝国大学法科大学に転入。

哲学科の授業に興味をもてず、また経済学に興味をもったがゆえの行動だったといいます。

一高への進学といい、型にはまらず、興味の赴くままに学問を修めていったのですね。

京大では経済学者の河上はじめや、哲学者の西田幾太郎と交流し

「日本の経済はどうあるべきか、国民はどうあるべきか」

という、国家学の考えを深めていきました。

卒業して間もない1918年には、論文『英米本位の平和主義を排す』を発表。

アメリカやイギリスの占領をはねのけ、アジアに独自の経済圏を作っていこうという思想が確立されていたことを垣間見せています。

 

貴族院議員として

近衛は25歳のころ、京大在学中に貴族院議員となります。

公爵の家系に生まれたがゆえ、この年齢で就任することが世襲として決まっていたのです。

この時代の動向にも、英米との協調路線を否定する近衛の政治思想が存分に表れています。

近衛が目指した改革とは?

1919年、近衛は全権・西園寺公望さいおんじきんもちに随行する形で、パリ講和会議に参加しました。

第一次世界大戦後の国連規約の策定などが行われたこの会議において、近衛は日本の外交力のなさを痛感。

欧米列強に対抗しうる国民を育てるべく、教育制度の改革を訴えています。

青年団の総本山・日本青年館の理事長となっているのも、国民教育の必要性を感じたがゆえです。

また、自身が属する貴族院に関しては

「憲法上、解散を命じられない地位を利用し、幅を利かせるようなことがあってはならない」

と主張し、あくまで衆議院が行き詰ったときにアドバイスをする指導者の立場であることをよしとしました。

近衛はこれを実現するため、幹部となることを目指し、院内の研究会などで勢力を広げていきます。

そして1933年、近衛が貴族院議長となったことで、体制は一応の完成を見せることとなりました。

組閣の大命を辞退

1936年、陸軍将校によるクーデター未遂「二・二六事件」が勃発。

大蔵大臣・高橋是清これきよ、内大臣・斎藤まことなどの閣僚が殺害されたことで、岡田啓介内閣が総辞職にいたります。

ここで近衛に組閣の大命が下るのですが、近衛はこれを辞退しました。

組閣に際して、元老・西園寺公望から提示された条件は、事件を起こした陸軍の粛清でした。

近衛は陸軍が展開する満州や中国華北への進出を支持しており、この粛清に不満があったため、首相就任を断ったのです。

実際、後年に首相を務めた際は、二・二六事件における逮捕者の免訴を主張して驚かれたことも…。

大事件を起こした陸軍をなぜ、これほどまでに支持したのか?

近衛は、

「日本が国力を安定させるためには満州を起点に中国と連携することが重要」

という持論をもっていました。

また、アメリカのルーズベルト大統領らとの会見を経て、

「日本が認められるためには国論を統一しなければならない」

という感想も抱いており、免訴を主張したのはそのためでした。

事件を起こした陸軍皇道派と妥協を図り、内閣と軍部の食い違いをなくそうと考えたのですね。

当然ながら、逮捕者の免訴は認められなかったのですが…。

 

内閣総理大臣として

二・二六事件を受けて組閣された広田弘毅内閣は陸軍の暴走を抑えられず、1937年に総辞職。

そのあとの林銑十郎せんじゅうろう内閣もわずか3ヵ月で総辞職となり、首相候補が近衛以外にいない状況となります。

こうして同年6月4日、第一次近衛内閣が組閣されました。

前述のように、近衛は陸軍を支持している事情もあり、選定に携わった西園寺は乗り気ではなかったようですね。

日中戦争の勃発

近衛内閣におけるひとつめの問題が、盧溝橋ろこうきょう事件をきっかけにした日中戦争の勃発です。

この局面に際し、近衛の採った采配は

「優柔不断、どっちつかず」

と評価されるものでした。

事件の不拡大を主張しつつも、増やされ続ける軍事予算。

さらに、日中首脳会談による和平交渉が画策された際、近衛は軍部との折り合いをつける自信がなく、これを断念してしまいます。

そうこうしているあいだに日中の戦闘が始まってしまい、不拡大方針は破棄されることに。

1938年1月には

「以後、国民政府を相手とせず」

という第一次近衛声明も発表され、和平交渉の道が完全に閉ざされることとなります。

続いて、国の物的・人的資源を政府がすべて統制する「国家総動員法」の施行など、戦争へ向けた体制が順に固められていきました。

最終的には、親日派で知られる中国国民党副総裁・汪兆銘おうちょうめいの仲介を受け、日本に有利な形での和平工作も行われましたが、

総裁の蒋介石しょうかいせきと対立した汪は、党内の賛同を得ることができず。

早期停戦が頓挫したことで、第一次近衛内閣総辞職にいたりました。

日独伊三国同盟と仏印進駐


1939年、ドイツがポーランドへ侵攻したことをきっかけに、イギリスやフランスが宣戦布告。

第二次世界大戦が勃発します。

破竹の勢いを見せたドイツを前に、日本もその勢いに乗じようという機運が高まりました。

この時勢に際し、近衛は軍部を支持する「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、地盤を固めていきます。

そして1940年7月、第二次近衛内閣が発足。

日独伊三国同盟を締結し、中国を支援しているアメリカやイギリスをけん制します。

さらに翌年にはドイツがソ連へと攻め込み、北側の憂いがなくなった日本は、フランス領インドシナ(仏印)への進出を画策しました。

仏印はアメリカから中国への輸出の拠点となっており、ここへ支援物資が送られることが日中戦争を泥沼化させる一因となっていたためです。

日本は仏印進駐によって、この輸出ルートの遮断を企てたわけですね。

この年、第二次近衛内閣総辞職に伴い、第三次近衛内閣が発足。

何を隠そう、これも仏印進駐を実現するためのものでした。

第二次近衛内閣の外務大臣・松岡洋右ようすけが仏印進駐に反対したため、彼を退任させるべく総辞職が行われたのです。

このようにして、近衛内閣が断固として推し進めた仏印進駐。

その選択は、結果として最悪の事態をもたらすこととなりました。

激怒したアメリカに石油輸出を差し止められ、日本は絶体絶命の状態に。

近衛内閣はアメリカとの交渉を試みますが、これも拒否され、日米開戦が避けられなくなったのです。

この局面に立たされ、近衛はこう口にしました。

「私は戦争に自信がない。自信のある人にやってもらわなければならない」

こうして1941年10月、第三次近衛内閣総辞職にいたります。

辞任後の近衛は、太平洋戦争の戦局悪化に従い、天皇に早期講和を訴える『近衛上奏文』を奏上するなど、積極的な終戦工作に乗り出しています。

近衛上奏文には、戦争の拡大を陸軍の陰謀とした箇所もあり、責任逃れとも取れるのですが…。

 

戦後「A級戦犯」となる

1945年8月、太平洋戦争の終戦に伴い、鈴木貫太郎内閣が総辞職。

続いて東久邇宮ひがしくにのみや内閣が組閣され、近衛は国務大臣、副首相となりました。

その地位を用い、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーとも会談。

日本社会における皇室や財閥の重要性を説き、その説得力から信任を得ています。

憲法改正に関しても、直々にその指揮を託されることに。

こういった経緯から当初、近衛は自分が戦争犯罪人になることはないと考えていたという話です。

しかし、日中戦争仏印進駐などの責任が近衛にあることは紛れもない事実。

アメリカ側から指導者として不適切であると見られるのに、そう時間はかかりませんでした。

同年10月には内閣の総辞職をもって、近衛も官職を辞しており、

「憲法改正の委嘱いしょくは、あくまで副首相としての近衛に向けられたものである」

とされたことで、戦犯指定が免れない事態となります。

こうして12月6日、GHQ総司令部は近衛にA級戦犯としての出頭を命じました。

その10日後の12月16日、青酸カリによる服毒自殺によって、近衛はその生涯を終えることとなります。

 

きょうのまとめ

日中戦争への消極的な姿勢、ドイツの勢いに乗じた仏印進駐などにより、事態を刻々と泥沼化させていった近衛文麿。

結果、太平洋戦争を経て日本は敗戦を喫することになりました。

後世の研究者による評価が散々なものになっていることも、もはや道理と言わざるを得ません。

最後に今回のまとめです。

① パリ講和会議で日本の外交力を憂い、貴族院内での地位を高め、教育制度の改革、貴族院に権力を自制させる体制を確立。

② 日中戦争の勃発に際しては、不拡大方針を主張しながらも、軍事予算を増加させる矛盾した行動を見せる。軍部と折り合いをつける自信がなく、和平交渉も断念。

③ 第二次世界大戦序盤のドイツの勢いに便乗し、日独伊三国同盟の締結や仏印進駐を断行。アメリカやイギリスを敵に回し、太平洋戦争の開戦を招いた。

近衛は首相となるまでにも、国をよくしていくための持論をさまざまに展開していました。

その数々からは、彼の並外れた思慮深さを感じ取ることができます。

思慮深いということは、考えに時間を要するということ。

それだけ迷いやすい面もあるのでしょう。

そういった近衛の性格が、戦争という場面に際して足枷になってしまったのかもしれません。

 
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