新選組メンバー藤堂平助とはどんな人物?【完全版まとめ】

 

新選組最年少幹部、藤堂平助とうどうへいすけは、

短命だったため記録があまり残っておらず、謎も多い青年です。

「近藤四天王」、「新選組四天王」の一人とも呼ばれた藤堂平助とは

どんな人物だったでしょうか。

 

藤堂平助はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:江戸
  • 生年月日:1844年
  • 死亡年月日:1867年12月13日(享年24歳)
  • 新選組での役職:副長助勤、八番隊組長、大銃頭
  • 剣の流派:北辰一刀流目録 天然理心流
  • 愛刀:上総介兼重かずさのすけかねしげ
  • 墓:京都市東山区戒光寺
  • 尊皇攘夷の心を持って浪士隊に参加し、新選組最年少幹部となったが、のちにその方向性の違いのために隊を離れ、新選組との抗争で命を落とすことになってしまった

 

藤堂平助 年表

年表

西暦(年齢)

1844年(1歳)江戸にて誕生

1863年(20歳)新選組結成

1864年(21歳)池田屋事件で活躍するも重傷を負う、伊東甲子太郎ら新選組に入隊

1865年(22歳)山南敬助切腹

1867年(24歳)新選組を離隊し御陵衛士となる(高台寺党結成)、油小路事件にて新選組に斬殺される

 

藤堂平助の生涯

近藤勇の道場・試衛館以来の生え抜きで、

新選組最年少幹部、八番隊組長となったのが藤堂平助です。

命知らずの江戸っ子

武蔵国出身の江戸っ子。

府中浪人との記録もありますが、詳細はわかっていません。

「藤堂和泉守の落胤」だと言われています。

落胤とは身分・地位のある男が正妻でない女にひそかに生ませた子のことです。

剣の腕前は北辰一刀流目録で、千葉道場玄武館の門弟もしくは、のち新選組隊士となる伊東甲子太郎の道場の寄り弟子だったそうです。

 

なぜか免許をもらう前に道場通いを辞め、近藤勇の試衛館道場の門人となっていました。

近藤勇、土方歳三、沖田総司らと共に試衛館生え抜き新選組結成メンバーです。

勇猛果敢な男で、市中見回りの任務では常に先頭を歩き、危険を顧みず敵に真っ先に飛び込むところから、ついたあだ名はさきがけ先生」

度胸だけでなく、剣の腕は、沖田総司、永倉新八、斎藤一とともに新選組四天王とも称されました。

1864年の池田屋事件では、20数名の敵に対し、

当初わずか4名で乗り込んだうちの一人です。

夏の夜の激闘は建物内の熱気がひどく、その暑さに油断し鉢金を取ったところ、額を斬りつけられ、重傷を負いました。

しかしその功績が認められ、幕府から近藤、土方に続く褒賞金が与えられました。

御陵衛士としての最期

藤堂は1864年11月の新選組の大規模な隊士募集に先立って江戸に下りました。

かねてから親交のあった伊東甲子太郎を勧誘し、彼とその一派が入隊。

もともと尊皇攘夷論者だった藤堂は、1867年3月に伊東甲子太郎と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱してしまいました。

御陵衛士となってからの藤堂は「南部弥七郎(もしくは弥八郎)」と改名し、新選組時代の彼の風評が御陵衛士同志の活動に及ぼす悪影響を懸念していたようです。

1867年11月18日、伊東甲子太郎が新選組に暗殺されます。

ワナとは知りながらも放置された伊東の遺骸を回収しようと、仲間と暗殺現場へ向かった藤堂。

新選組との戦闘で斬殺され、その短い命を終えてしまいました(油小路事件)

 

藤堂平助にまつわるエピソード

御落胤説

伊勢・津藩主、藤堂高猷たかゆきの落胤、もしくは津藩の支藩である伊勢久居藩の家老藤堂八座やくらの子と言われています。

この御落胤説には信憑性があり、その証拠が藤堂の佩刀はいとう上総介兼重と銘打たれた長刀。

兼重は藤堂藩お抱え刀工で、池田屋事件のあと修理に出された刀の記録では、藤堂の刀は上出来作であり、一介の素浪人が持てるような安価な刀ではありませんでした。

しかし、事件後はこの刀もぼろぼろで修復不可能だったそう。

彼の御落胤説は、新選組の内外でも有名で、薩摩藩士の記録にさえそのことが彼の美しい容貌と勝ち気な性格と共に伝えられています。

人となりと容貌

小柄ではありましたが、いつも人に先駆けて危険に飛び込む藤堂は、「魁先生」と呼ばれ、命知らずとして知られました。

人々の記録に「美男」「美男士」と残され、立ち姿は「白梅のよう」だったそう。

「江戸っ子で有意の人材」

(御陵衛士同志鈴木三樹三郎談)

であり、「経済に達し戟剣をよくする」等といった記録から、文武に長けた若者のようです。

彼に残る女性関係の話はほぼ皆無ながら、祇園一の美貌を誇る君尾という芸者の証言があります。

1864年に京都四条南座で、酒に酔った新選組隊士が客と芝居を見に来ていた君尾に手を出そうとします。

すると二階から美貌の若侍がひらりと舞い降りたのです。

「伊勢浪人藤堂平助」と名乗る青年は、君尾を救ってその場を諫め、人々に「今牛若」と讃えられたそうです。

しかし、そんな鮮やかな振る舞いをする藤堂は、一方で近藤からはいつも

近藤
態度が悪い

と叱られていたとか。

粋な美男の江戸っ子でありながら、若者らしいやんちゃな彼のひととなりが窺えます。

 

御前試合

会津藩お預りとなった壬生浪士組は、1863年4月に会津藩本陣の黒谷の金戒光明寺で御前試合を行うことになりました。

その幕開けとなる最初の試合が土方藤堂戦。

結果はどうだったんでしょうか?

その他にも、永倉対斎藤、山南対沖田など、興味深い組み合わせの試合があったようで、詳細記録がないのが実に残念です。

 

分かれ道

1864年の大規模な新選組隊士募集の後もひとり江戸に留まって活動を続けます。

ようやく京へ戻った藤堂に、留守の間の山南敬助の脱走と切腹が知らされます。

北辰一刀流の同門であり、試衛館からの仲間だった彼の死に対する藤堂の反応についての記録はありません。

山南の死は、後に北辰一刀流の伊東甲子太郎と共に新選組を離隊する決断に、何らかの影響があったのでしょうか。

その伊東暗殺の後に、藤堂も殺された油小路事件

戦闘の前に近藤は「藤堂を生かしておきたい」旨を永倉新八に伝えており、永倉は藤堂を逃がそうとしますが、その事情を知らなかった三浦常三郞に斬殺されました

(『新選組顛末記』)。

藤堂は永倉の気持ちを知りながらも同士を見捨てられず、また魁先生としての意地もあって新選組に立ち向かった

という説もあります。

事件後の検死では、藤堂は額から鼻にかけて断ち割られ、傷は長さ約2.1センチ、深さ6センチに達するほどで、ほぼ即死状態だったとのことです。

実は、藤堂は九死に一生を得て油小路から脱出して横浜に住み、旧新選組隊士の川村三郎と共に事業で成功し、大正11、2年ごろに亡くなった

という生存説もあります。

検死の記録まである藤堂ですが、源義経の生存説のように死を惜しむ人々の願いから生まれた説かもしれません。

 

きょうのまとめ

藤堂平助についていかがでしたでしょうか。

藤堂平助とは?

簡単にまとめると

① 新選組に殺された「新選組四天王」の一人

② 「魁先生」と呼ばれ、江戸っ子で小柄ながら文武に優れた新選組八番隊組長

③ 尊皇攘夷の志を貫くため御陵衛士となっても新選組の仲間として忘れられることのなかった男

と言えるのではないでしょうか。

その他にも新選組にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku