天海とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

徳川家康、秀忠、家光と3代にわたって将軍から重用された僧侶

南光坊天海てんかい

大僧正の地位に就きながらその前半生に謎も多く、天海とはどんな人物だったのかが気になります。

 

天海はどんな人?

プロフィール
天海

天海像(木村了琢画・賛、輪王寺蔵)
出典:Wikipedia

  • 出身地:陸奧国(現在の福島県)会津か?
  • 生年月日:1536年?
  • 死亡年月日:1643年11月13日(享年108歳?)
  • 徳川家康の参謀として江戸幕府立ち上げ期の朝廷政策・宗教政策に関与した「黒衣の宰相」。2代将軍秀忠、3代将軍家光にも仕えた天台宗の大僧正

 

天海年表

年表
*1536年生年説を採用した場合

西暦(年齢)

1536年(1歳)誕生

1545年(10歳)
このころ出家し髄風ずいふうと称す。その後園城寺(三井寺)、比叡山延暦寺、粉河寺や興福寺にて修行

1590年(55歳)川越の無量寿寺(のちの喜多院)で豪海権僧正に師事。名を「天海」と改める。徳川家康と初対面する

1600年(65歳)関ヶ原の戦いにて徳川家康の参謀をつとめる

1603年(68歳)江戸幕府開府。家康に登用され、朝廷との交渉役などで活躍

1607年(72歳)比叡山探題となり、延暦寺を再興

1609年(74歳)比叡山の東塔南光坊に住む。権僧正ごんのそうじょうとなる

1613年(78歳)駿府城の家康に天台論議法要を行う。日光山の貫首かんじゅとなり日光山の復興に尽力

1616年(81歳)家康の病気見舞いに駿府へ急行し、死後の祭祀を遺言される。家康没。大僧正となる。家康の神号について金地院崇伝と争い、天海の主張である「権現」に決定する

1617年(82歳)家康を神号「東照大権現」として久能山から日光山に改葬。

1625年(90歳)東叡山寛永寺の建立。将軍家の菩提寺となる

1643年(108歳)病気に臥す。10月2日、寛永寺にて死没。家康と同じく日光に埋葬される

天海の生涯

天海は「黒衣の宰相」(僧でありながら権力者の側近として影響力を持った人物)でありながら、弟子にも自分の出自について語らず、前半生に謎の多い人物です。

生年は明確ではありませんが、100歳以上の長命でした。

天海となるまで

陸奥国(現在の福島県)会津出身で、三浦氏の一族の蘆名氏あしなしの出とされます。

若くして出家し、随風ずいふうと名乗りました。

園城寺や比叡山延暦寺で修行をし、1571年に織田信長の比叡山焼き討ちがあったため、武田信玄の招聘で甲斐国に移住したと言われています。

その後は蘆名盛氏あしなもりうじ招聘しょうへいで黒川城(現在の会津若松城)の稲荷堂で暮らしました。

さらに上野国の長楽寺、1588年には武蔵国の無量寿寺北院(のちの喜多院)に入寺して豪海僧正に師事しています。

徳川家康とのかかわり

1599年豪海の後を継いで北院の住職となった天海は、やがて徳川家康との関わりを深めます。

徳川家康が幕府を開くころから家康の参謀となり、朝廷との交渉などで活躍。

1607年には比叡山探題として南光坊なんこうぼう延暦寺再興を行っています。

1609年には権僧正に任じられました。

徳川方と豊臣方の最後の合戦・大坂の陣のきっかけとなる1612年の「方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけん」にも関わっていたと言われます。

同年には無量寿寺北院の再建を行い、寺号を喜多院とあらためて関東天台の本山とし、翌年には本坊・光明院をも再建。

1616年には大僧正となりました。

家康の絶大なる信頼を得ていた彼は、同年の家康の危篤の際には、遺言を託された一人でした。

家康の死後と天海の長い生涯のおわり

天海と同様に「黒衣の宰相」として家康に仕えたライバル・金地院崇伝こんちいんすうでんという臨済宗の僧侶がありました。

天海は、亡くなった家康を神として祀る時の神号について彼と争っています。

家康を「明神」にすべきという崇伝に対し、天海はかつて「豊国大明神」が贈られた豊臣氏の滅亡が不吉であると主張し、「権現」を勝ち取ったのでした。

のちに家康の遺体を「東照大権現」として祀り、久能山から日光山に改葬しています。

家康のみならず、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光の政治顧問としても活躍した天海は、江戸に陰陽道や風水などを用いた江戸鎮護を目的とする都市計画にも関わります。

1625年には徳川将軍家の菩提寺となる上野の寛永寺を建立しました。

1643年、108歳(推定)にて東叡山(寛永寺)にて死没。

 

天海の功績

天海は、交渉事などで活躍するほか家康没後の彼の神号の決定、日光東照宮の造営など以外にも大きな功績を残しました。

江戸づくり

陰陽道では都に相応しい立地を選ぶ際に、「四神相応」というという地相を重んじます。

それを採り入れた都づくりの例が平安京です。

そして幕府の本拠地江戸も、陰陽道に詳しい天海の「四神相応しじんそうおう」を踏まえた助言を参考にして選定されたと言われています。

東に平川(神田川)、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があり、四方に神が宿る地相が重視されました。

さらに江戸城構築では、実務面を築城の名手・藤堂高虎とうどうたかとららが担当し、思想・宗教的な面で「陰の設計者」として天海が関わっています。

彼は江戸城の北東の「鬼門」には寛永寺と上野東照宮を、南西の「裏鬼門」には徳川家の菩提寺・増上寺と日枝神社を配置するなど江戸城、そして江戸の町を堅固な都へと形作っていきました。

経典の出版

天海は将軍家光の支援を受けて、兵火によって散逸していた天台宗の経典を弟子と共に11年もかけて収集整理しました。

1648年には木製の活字を使って「天海版一切経」を印刷出版させます。

これは、日本の印刷文化史上極めて評価すべき業績の一つと言われており、天海が作製させた26万個以上の活字(天海版木活字)が寛永寺に現存しています。

 

天海=明智光秀説は本当?

明智光秀

いつの頃からか天海は、実はその前半生が明智光秀だったという説が囁かれるようになりました。

それは本当でしょうか?

【天海が明智光秀だったとされる根拠】

・明智光秀が死亡したとされる1582年以降に比叡山に「光秀」という名前で寄進された石碑がある

・比叡山関連の専門図書館・叡山文庫には俗名・光秀という僧の記録が残っている

・日光の「明智平」は、天海によって命名された

・徳川家光の乳母・春日局かすがのつぼねは、光秀の重臣・斎藤利三さいとうとしみつの娘である

・天海の廟所びょうしょ慈眼堂じげんどうが光秀の居城のあった大津市坂本に創られた

・徳川家康と天海は初対面の時、人払いした上で親しげに話をした

・初対面だった春日局は天海に会ったときに「おひさしぶりです」と挨拶した

「天海=明智光秀説」は歴史学者には支持されていません。

最近は天海と明智光秀の書状などに残された筆跡鑑定により、同一人物ではないと判断されたこともあります。

このような説が主張されるのは、歴史ミステリー愛好家による「明智光秀が天海となって豊臣氏を滅ぼし、怨みを晴らした」という考えが根底にあるようです。

 

天海の墓所

日本にいくつかある天海の墓所のうち2箇所ご紹介します。

日光の慈眼堂

天海の遺言により日光山に埋葬され、墓所に建てられた拝殿が慈眼堂と称されています。

慈眼堂は「日光の社寺」として世界遺産に登録されている天台宗の寺院・輪王寺りんのうじの敷地内にあります。

六部天に囲まれるように立つ墓石は巨大な五輪塔で、北関東一の大きさとも言われます。

<天海の墓所 日光山輪王寺 慈眼堂:栃木県日光市山内2300>

大津坂本の慈眼堂

天海の死後に贈られた「慈眼大師」から名付けられた慈眼堂は国内に何カ所かありますが、滋賀県にある慈眼堂は徳川家光によって1646年に建立されました。

堂が重要文化財に指定されています。

天海の供養塔の他、敷地内には、桓武天皇の御骨塔、徳川家康・清少納言・紫式部などの供養塔もあります。

<天海の墓所 坂本慈眼堂 :滋賀県大津市坂本4-6-1>

 

きょうのまとめ

今回は、江戸幕府創立時より将軍の側近として活躍した僧侶・天海をご紹介しました。

天海とは、

① 徳川3代の将軍に重用された「黒衣の宰相」

② 徳川家康を東照大権現に仕立てた大僧正

③ 日光東照宮、江戸の町、「天海版一切経」づくりに尽力した幕府・仏教界の実力者

③ 歴史愛好家に「明智光秀かもしれない」と考えられている謎多い人物

でした。

 

徳川3代に仕え、100年を越える長寿をもって活躍した天海。

謎の半生を持つ大僧正の秘密が解き明かされる時は来るのでしょうか。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku