竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆と二人の比較

 

竹中半兵衛たかなかはんべえとともに豊臣秀吉に仕えた参謀・黒田官兵衛

二人は「両兵衛りょうべえ」あるいは「二兵衛にへえ」と並び称されました。

二人の関係や人となりをエピソードとともに比較しながら見てみましょう。

 

官兵衛が半兵衛に感じた一生の恩

竹中半兵衛
出典:Wikipedia

竹中半兵衛と官兵衛の二人の絆を決定づけたできことがありました。

松寿丸の命

1578年、荒木村重の謀反で有岡城に説得に向かった黒田官兵衛が幽閉されてしまいました。

それを官兵衛の裏切りと誤解した信長は激怒

官兵衛の息子の

信長
松寿丸(のちの黒田長政)を殺せ

と命令します。

しかし竹中半兵衛は殺したふりをして松寿丸を密かに匿いました。

1年後、官兵衛は幽閉されていた牢獄から救出され、信長の元に戻って無実を証明しました。

そして、殺されたと思った松寿丸が半兵衛のおかげで生きていたことを知るのです。

半兵衛の死と軍配に込められた思い

誤解から松寿丸の命を奪わずに済んだ信長と、実の息子を助けられた官兵衛は深く半兵衛に感謝します。

しかし、その時すでに半兵衛は持病の肺病で亡くなっていました。

半兵衛を思い、悲しみに暮れる官兵衛のもとに半兵衛の遺品の軍配が届きます。

それはまさに同じ軍師として共に戦った官兵衛に対して

「自分の後を継ぐのはお前だ」という半兵衛からのメッセージ。

そのメッセージをしかと受け取った官兵衛はその後もますます活躍します。

また、半兵衛に深く恩義を感じる官兵衛は、竹中家の家紋を黒田家の家紋として譲り受け、

竹中半兵衛の子供、重門の烏帽子親えぼしおや(元服の際に立てる仮親)も務めています。

 

二兵衛比べ

豊臣秀吉

エピソードに象徴されるように、二人は天才軍師同志として認め合い、尊敬し合っていました。

ここではあえてそんな「二兵衛」の違いを比較してみました。

先輩と後輩

半兵衛が生まれた年が1544年、官兵衛は1546年ですから、半兵衛が2年ほど官兵衛の先輩です。

官兵衛は1575年頃に秀吉に仕え始め、半兵衛は1579年に亡くなっていますから、

同時期に二人が活躍したのは4年ほどでした。

風貌

半兵衛は生まれつき病弱で、華奢な体格をしていました。

色白で顔立ちがやさしく、「その容貌、婦人のごとし」と言われるような美丈夫だったそうです。

美丈夫: (顔や姿の美しい)立派な男。

一方、官兵衛はずんぐりとした体型

荒木村重に幽閉されてしまった1年の間には、足が曲がってしまい、頭にはみにくいかさ(皮膚病)ができていたと言われています。

官兵衛の肖像画では頭に頭巾のようなものを被っていますが、それはその瘡を隠すためだったそうです。

性格

半兵衛は、優しそうに見えた外見そのまま、性格も控え目だったようです。

大言壮語せず、武術をひけらかすこともなかったとか。

若い頃にはその容貌と性格のために、仲間内では「青びょうたん」と軽んじられていました。

官兵衛は節約家

でもただのケチではありません。使い処を知っていたのです。

兵が必要なときには非常に金払いがよかったため、あっという間に兵が集まったということです。

戦術の傾向

半兵衛の戦術はとてもスマート

敵方の重臣を口説き落として戦わずして勝つのです。

味方の戦力を落とさず勝つこの方法こそ最高の戦い方。

しかも半兵衛は軍師でありながら自分が先陣を勤める猛者でした。

剣術は皆伝の腕前。

欲はなく、信長相手にも嫌なものは嫌と拒絶する男でした。

恩賞のために働くというよりは、自分の策略がきちんと成功することに喜びを感じていたアーティスト肌の武将といえるでしょう。

一方、官兵衛は兵糧攻めや水攻めなど発想が鮮やか

どんなチャンスも逃さない非情で現実的な目を持ったリアリストでした。

槍や刀で戦うよりも采配を振るう方が得意だったと本人が語っています。

誰が一番有望な主君となるかを見極めるセンスがあり、力のある主君のもとで隙があれば天下を狙おうとしていた野心家です。

秀吉へのウケ具合

陣形が気にくわなければ、半兵衛は戦場で勝手に変えることを許されるほど秀吉に信頼されていました。

半兵衛の病気が悪化したときには、秀吉が心配して京都での療養を勧めます。

それでも三木城攻めの陣に戻ってきた半兵衛。

その陣で亡くなった時には、秀吉はひと目もはばからず半兵衛の体にとりすがって大泣きしたといいます。

一方、官兵衛は貢献の割には秀吉に冷遇されました。

あの「中国大返し」の後でさえ、官兵衛に与えられたのは都から遠い豊前の12万石のみ。

それは、大きな力を与えて官兵衛が天下を取るのを畏れたためでした。

秀吉は

秀吉
自分の死後に天下を狙うものがあるとしたら、それは官兵衛だ。

と言ったそうです。

優秀すぎた男の悲劇でもありました。

 

おわりに

無欲の戦略アーティスト竹中半兵衛と野心家リアリスト黒田官兵衛。

性格の違う二人でしたが、お互いを信頼し認め合った軍師の絆は強いものでした。

豊臣秀吉が天下を統一できたひとつの理由は、二人の優秀な軍師を持つ幸運に恵まれたことでしょう。
 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku