平宗盛は平清盛の息子でした。
平家が源氏に敗戦・滅亡した壇ノ浦の戦いの時に平家一門を率いていたのです。
これだけも、彼の人生が平坦ななものではなかったことが想像できそうですね。
宗盛がどんな人物だったのかについて見てみましょう。
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平宗盛はどんな人?
- 出身地:未詳
- 生年月日:1147年
- 死亡年月日:1185年7月19日(享年39歳)
- 偉大な父親・平清盛の死後平家一族の運命を委ねられ、源平合戦の壇ノ浦での戦いで敗戦して平家最後の当主となった悲劇の総大将
平宗盛年表
西暦(年齢)
1147年(1歳)平清盛の継室・時子の長男として誕生
1167年(21歳)清盛が太政大臣を辞任。宗盛、参議となる
1178年(32歳)権大納言になる
1179年(33歳)兄・重盛死没後の遺領を没収した後白河法皇を幽閉し院政を停止させる(治承3年の政変)
1180年(34歳)安徳天皇即位。以仁王が平氏追討令旨を発し挙兵。源頼朝・木曽義仲挙兵。後白河法皇の院政が再開
1181年(35歳)平清盛死没。宗盛が平氏の棟梁となる
1183年(37歳)宗盛と平家一族が安徳天皇を奉じて大宰府に入る。木曽義仲の入京
1184年年(38歳)平氏軍が一ノ谷の合戦にて敗退
1185年年(39歳)源義経との屋島の戦いで敗戦。壇ノ浦の戦いにて平家一門滅亡。総大将の宗盛は息子・清宗と共に源義経に捕らえられたのち処刑される
平宗盛の生涯
平宗盛は、平清盛の三男として清盛が活動を活発にし、出世していく過程を見ながら成長しています。
彼にとっての「平家」という存在は、誇らしく思うと同時に、清盛の息子であるという重責を実感する存在だったことでしょう。
順調な出世と挫折
1147年に平清盛と平時子の間に誕生した宗盛。
時子は清盛の継室、つまり後妻としての正室で、宗盛は彼女にとって長男でしたが、父親の清盛にとっては三男です。
10歳年上には、異母兄で清盛の嫡男・平重盛がありました。
1159年の平治の乱では、平清盛を中心とする平氏が
・源義朝
を打ち破り、源氏を抑えて中央政界で力を持ち始めました。
清盛は、朝廷における重要ポストを平氏一門で独占しつつあり、宗盛も兄の重盛と共に順調に出世していきました。
1167年に清盛が太政大臣を辞任すると、嫡男の重盛が平氏の棟梁を引き継ぎます。
宗盛は参議となり、平家においては重盛に次ぐナンバー2となりました。
清盛は身内と天皇家との婚姻関係を結ぶことで政界における平家の基盤を強固にします。
宗盛の場合も
・法皇妃・滋子の同母妹・清子が妻
という点で朝廷とは強く結びついていました。
1177年には、兄の重盛が左近衛大将、宗盛が右近衛大将という宮中警固をつとめます。
名誉ある職務の長官の両大将を平氏が独占しました。
同年、平氏の専横に不満が高まる後白河法皇の近臣たちが、平氏打倒を計画した「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚。
計画の中核人物とされた西光・藤原成親たちは処刑され、この事件で法皇と清盛との関係は悪化しました。
その後宗盛の兄である平重盛は、藤原成親が義兄だった関係で政治的に失脚し、代わりに宗盛が平家を率いました。
1178年には権大納言になっています。
そんな時、彼の妻が急死。
宗盛は悲しみのあまり政治への意欲を失い、のち右近衛大将と権大納言を辞任して、政治から距離を置くようになりました。
後白河法皇との対立、父・清盛の死
しかし、1179年に兄の重盛が病没すると、宗盛が平家の棟梁とならざるを得ない状況となりました。
すでに1176年に平氏と法皇の緩衝材的役割だった叔母の滋子は亡く、法皇と平氏との関係はますます悪化。
法皇は亡くなった重盛と宗盛の妹・盛子との遺領と知行国を強引に没収しました。
さらに、平家の縁者をないがしろにするような人事を断行したため、激怒した清盛の指示で宗盛は法皇を幽閉し、院政をストップさせています。
翌1180年、宗盛の甥である安徳天皇が即位しました。
すると、皇位継承の望みを絶たれたことを不満に思う以仁王が諸国に平氏討伐の令旨を出し、摂津源氏の源頼政と共に挙兵しました。
平維盛軍が彼らを宇治で征伐します。
しかしその後は西国での飢饉の影響もあり、寄せ集めた平氏軍の士気は上がらず、東国から挙兵した源義朝の息子・源頼朝との富士川の戦いではろくに合戦を行わないまま撤退。
6月に清盛が福原へ一度は遷都しながらも11月には京に戻るなど、平家内部の足並みも揃いません。
12月には反平氏の動きを見せた興福寺を焼討ち(南都焼討ち)して鎮圧した平氏ですが、1181年には安徳天皇の父・高倉上皇と清盛が亡くなってしまいました。
後白河法皇の院政復活と源氏の挙兵
清盛の死後、後白河法皇は院政を再開しました。
源頼朝は、後白河法皇を通じて平氏へ和睦を提案してきましたが、宗盛は清盛の遺言通り拒否しています。
一方、1180年に以仁王の呼びかけに呼応して挙兵をしていた、木曽義仲(源義仲)は、すでに平教盛の追討軍を破って北陸を平定。
1183年には平維盛軍も倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に大敗しました。
勢いづいて入京してくる義仲軍に追われるようにして、ついに宗盛は平氏の拠点だった六波羅の館に火を放ち、安徳天皇を奉じて一族と共に京を離れました。
後白河法皇は一時的に法住寺殿(後白河法皇の御所)を脱出して延暦寺に避難しましたが、のち京都に戻って平氏追討の宣旨を下しています。
つまり、その時点から平氏は賊軍となり、宗盛は賊軍の大将となってしまいました。
都落ち、壇ノ浦そして宗盛の死
宗盛たち平家一門は、福原から海を渡って九州の大宰府を目指し、一時は勢力を回復します。
しかし、1182年の一ノ谷の戦いでは、源範頼・義経の率いる平氏追討軍によって敗退。
落ちのびた屋島でも、義経軍から急襲を受け海上に逃れます。
宗盛を総大将にした平氏軍は、壇ノ浦の海上で最後の戦いに挑みましたが、源義経の活躍により源氏軍に敗れてしまいました。
安徳天皇やその祖母であり宗盛の母でもある平時子、そして多くの平家の人々が入水し、平家一族は滅亡しています。
しかし、平宗盛・清宗父子は生け捕りにされて帰京し、のちに処刑されています。
平宗盛ってこんな人
平宗盛については、平家一門を率いる能力に欠けた人物だとされる記述が多く残っています。
しかし、武勇に優れた人物ではなくても、安定した平家政権の時期を乗り切る実務的な能力はあった人物だと近年評価が見直されつつあるようです。
壇ノ浦では死ななかった宗盛
宗盛は壇ノ浦で命を落としたのではありません。
『平家物語』では彼の死までの経緯が以下のように記されています。
壇ノ浦での敗北が決定的になった時、平家の一門が次々と入水する中でも大将の宗盛はうろたえるばかり。
その見苦しい様子を見かねた平氏の武将たちが、宗盛を無理やり海に突き落としましたが、
宗盛は泳ぎの名手だったので泳いでしまって死にきれず、息子の清宗と共に源氏の手の者に引き上げられて捕虜となった。
のちに宗盛・清宗父子は、義経によって鎌倉に護送され、再び京へ送還される道中の近江国篠原宿にて斬首された。
このため、宗盛の男系血統は途絶えています。
宗盛の不名誉な逸話、やさしい性格エピソード
宗盛には平家の当主としては以下のような不名誉な話が多く残されています。
・自害などはできない臆病な性格である
・大食らいで、人に引かれた馬に乗って二度も落馬したことがある
・「父(清盛)は遺恨があればすぐに仕返しするが、私(宗盛)は事を荒立てないように知らぬふりをする」と言った
ただ、
・『源平盛衰記』
・『吾妻鏡』
・『玉葉』
などが勝者側の記録である限り、宗盛についてのエピソードが作り話である可能性は否定できません。
一方、宗盛の優しい家庭的な一面を示す逸話も残っています。
・宗盛の処刑直前の最期の言葉が「右衛門督(清宗)もすでにか」と自分の息子を思う言葉だった
・壇ノ浦の戦い後、捕虜として軟禁されていた宗盛は、当初地元の人々に快く思われていなかったが、宗盛が子供と戯れる様子が情愛にあふれており、人々も徐々に心を許した。彼が処刑されると、その死を悼む者が多かったという。
平宗盛の墓所
壇ノ浦の戦いで子の清宗と共に生け捕りにされた平宗盛は、鎌倉へと護送され、のち鎌倉から再度京へ送還される途中、近江国篠原宿にて斬首されました。
その時の平宗盛・清宗父子の胴が埋められたと伝わる場所が、「平宗盛卿終焉之地」の碑とともに胴塚として残されています。
<平宗盛の胴塚:滋賀県野洲市大篠原86>
きょうのまとめ
平宗盛とは、
① 平家一門が滅亡したときの平家最後の当主
② 平家の当主として相応しくない逸話の多い武将だが、人の良い優しい一面もあったとされる人物
③ 壇ノ浦の戦いで生け捕られ、のちに息子ともども処刑された悲劇の武将
でした。
彼の死後に記された多くの記録が全て事実とは限りません。
まだ私たちは平宗盛の本当の姿を知らないだけなのかもしれないのです。
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