畠山重忠とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

畠山重忠はたけやましげただ

平氏や源氏の武将たちのような派手さはないかもしれません。

源平合戦や鎌倉幕府の始まりを語るとき、この武将を話題にしないわけにはいきません。

畠山重忠がどんな人物だったのかを知れば、どうして彼が現代でも慕われているのかがお分かりいただけることでしょう。
 

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畠山重忠はどんな人?

プロフィール
畠山重忠

畠山庄司重忠 月岡芳年画「芳年武者无類」
出典:Wikipedia

  • 出身地:武蔵国男衾畠山鄕おぶすまはたけやまごう(現在の埼玉県深谷市畠山)
  • 生年月日:1164年
  • 死亡年月日:1205年6月22日(享年42歳)
  • 清廉潔白な人柄で知られ、鎌倉幕府創業の功臣として頼朝に重用された「坂東武士ばんどうぶしの鑑」。頼朝没後に執権・北条時政によって謀殺された
 

畠山重忠年表

年表

西暦(年齢)

1164年(1歳)武蔵国男衾の畠山館にて誕生

1180年(17歳)

8月 衣笠城きぬがさじょう合戦にて三浦義明みうらよしあきを討取る

10月 頼朝の支配下に入り、頼朝が平氏討伐のため鎌倉を発つ際の先陣をつとめる

1184年(21歳)

正月 源義経に従い宇治川の戦いで木曽義仲軍を撃破。

2月 一ノ谷の戦いで鎌倉軍は大勝

1189年(25歳)7月 奥州合戦で先陣を務める

1190年(26歳)10月 頼朝上洛の先陣を務める

1193年(29歳)武蔵国の丹党と児玉党の武士団同士の確執の仲裁をおこない、国内の開戦を防ぐ

1199年(35歳)源頼朝死没。子孫を守護するよう頼朝から遺言を受ける

1205年(42歳)6月 北条時政により息子の畠山重保が由比ケ浜ゆいがはまで謀殺される。同様の謀略で重忠も武蔵国二俣川にて北条義時の大軍と対戦し討死する

 

畠山重忠の生涯

畠山重忠は武勇に秀で、鎌倉幕府成立に大きな貢献をした源頼朝の功臣こうしんです。

しかし、最初は源頼朝とは敵対関係にありました。

源頼朝の敵だった男が頼朝に帰伏

畠山重忠は武蔵国畠山荘の桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族である畠山重能しげよしの子として1164年、畠山館で誕生しました。

彼の母は正室の三浦義明の娘です。

しかし、重能の側室・江戸重継えどしげつぐの娘が生みの母親の可能性もあります。

妻には重保しげやすの母である北条時政の娘と、重秀しげひでの母となる足立遠元あだちとおもとの娘の2人が知られています。

父・重能は、源頼朝の父・源義朝みなもとのよしともと兄・源義平みなもとのよしひらに従っていました。

しかし1159年の平治の乱で義朝が敗死した以降からは平氏の家人として活躍していました。

1180年、源頼朝が流刑地の伊豆で挙兵したときには、京で大番役おおばんやくを勤めていた父に代わって、武蔵の地に残っていた17歳の畠山重忠が、平家方として頼朝討伐に向かいました。

この戦いが石橋山の戦いです。

重忠は、頼朝に味方した三浦氏の長、三浦義明を討ち取っています。

しかしその後、頼朝が再起を図った時には、重忠は源頼朝に帰伏し、頼朝が鎌倉に入る際には先陣を務めました。

なぜその時に重忠が頼朝に恭順したのかについての理由はわかっていません。

また、その頃には父親の重能は隠居していたようです。

源平合戦での活躍

その後の重忠は頼朝に忠実に尽くします。

1184年には、源義経に従って宇治川(京都府宇治市)の合戦で木曽義仲を討ち、

同年2月には、一ノ谷(兵庫県神戸市)の合戦で活躍。

怪力の持ち主だったと言われる重忠には、

義経軍の作戦で鵯越ひよどりごえの崖を降りるときに、

怪我をさせないために愛馬の三日月を背負って降りた

というエピソードが残されています。

その後、1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、重忠は伊勢国の地頭となりました。

1186年に源義経の愛妾あいしょう静御前しずかごぜんが、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうにて源頼朝の前で白拍子しらびょうしの舞を披露したときには、彼が銅拍子どうびょうしを打って伴奏を務めました。

のち重忠は配下の地頭代が狼藉問題を起こしたり、梶原景時かじわらかげときに謀反を疑われて讒言ざんげんされるなどを経験しますが、

その都度自身への疑いを晴らし、1189年の奥州藤原氏討伐では頼朝の大軍の先陣を努めています。

源頼朝への忠誠と貢献

その智勇と清廉潔白な性格で「武士のかがみと称えられた重忠は、ますます頼朝そして鎌倉幕府のために尽力します。

・1190年 源頼朝上洛の際に先陣を務める

・1193年 頼朝の命で、丹党たんとう・児玉党の両武士団の確執を調停

・1195年 頼朝の再度の上洛にも先陣となる

・1199年 頼朝死去。その際、源氏の子孫を守護すべしとの遺言を受ける

・1203年 北条義時に従い、比企ひき氏一族の討滅に参加

忠実に職務を遂行した重忠は、将軍頼朝にとって信頼できる武将だったに違いありません。

彼は北条氏が力を持ち始める鎌倉幕府で、有力な御家人としての地位を確立したのです。

頼朝亡き後と重忠の滅亡

さて、頼朝の死後、1200年に梶原景時が、1203年に比企能員ひきよしかずらが討たれ、

1204年には彼らを頼りに職務を遂行していた第2代将軍・源頼家が幽閉ののち謎の死を遂げました。

1203年には第3代将軍として源実朝が就任しましたが、実権は執権の北条時政が握っていました。

1204年11月、重忠の息子の重保しげやすがとある宴会で平賀朝雅ひらがともまさと口論となったのです。

平賀朝雅とは、北条時政の娘婿むすめむこにあたります。

そして、その件について時政の後妻・牧の方が時政に讒言したことが原因で、畠山重保は謀殺されてしまったのです。

当時、虚報を受けて武蔵国から鎌倉へ向かう途中だった重忠は、息子の訃報ふほうを知りました。

そして、北条義時が率いる幕府軍数千騎に二俣川ふたまたがわ(神奈川県横浜市旭区)で待ち伏せされていることを知りながらも、

あえて潔く戦うことを選び、激戦ののち命を落としてしまいました(畠山重忠の乱)

 

重忠が起こした「乱」ではない「畠山重忠の乱」

鎌倉幕府創業に尽力した功臣こうしんの畠山重忠でしたが、北条時政の謀略によって一族もろとも滅ぼされてしまいました。

重忠がみずから謀反を起こしたわけではありません。

しかしこの戦いは「畠山重忠の乱」と呼ばれ、その戦いの経緯が『吾妻鏡』に記録されています。

畠山重保の謀殺の経緯

1204年11月、畠山重忠の息子の重保が、京都守護の平賀朝雅邸で催された酒宴で、平賀朝雅と口論となりましたが、その場はおさまりました。

翌年、北条時政の後妻である牧の方は、娘の婿の朝雅による畠山重忠父子の謀反についての訴えを受けて時政に讒言します。

それを聞いた時政は、執権である北条氏の邪魔になる畠山氏を陥れるための陰謀を計画。

朝雅は時政の娘の夫だったのです。

時政は、息子の北条義時や娘の北条政子らに計画を相談します。

当初はそれまで忠実だった重忠が謀反を考えるなど信じられなかった義時も説得されてしまいました。

平賀朝雅は武蔵国司であり、畠山氏は武蔵国の有力武将だったため、もともと対立関係だった可能性もあります。

1205年6月22日、「謀反人が由比ヶ浜に集結している」という虚偽の報告を受けた重保は、郎党3名を連れて由比ヶ浜に駆けつけました。

ところが、その謀反人とは重保自身のことだったのです。

それを悟った重保は奮戦しますが、北条時政が差し向けた三浦義村みうらよしむららによって討たれてしまいました。

畠山重忠の最期

同じく畠山重忠も同様にワナだと知らず、虚報に応じて武蔵国から鎌倉へ向かう途中でした。

道中、重忠は息子の重保の訃報と同時に、北条義時が率いる討伐軍が自分に向かって攻めてきていることを知ります。

義時の軍勢は数千騎。

一方重忠の手勢は150騎。

勝ち目のないことを知りながら、 それでも重忠は、潔く戦うことを選びます。

二俣川(神奈川県横浜市旭区)で激戦の末、重忠は愛甲季隆あいこうすえたかの矢を受けて最期を遂げたのでした。

それを知った息子の畠山重秀も自害。

武蔵国における最有力武士団の畠山氏はこうして滅んでしまったのです。

北条義時の怒りと父・時政への不信

北条義時は重忠が引き連れたわずか150騎の軍勢を見て、彼に謀反の意志などなかったことに気づきました。

のち、そのことを父の時政に涙ながらに告げ、時政による謀殺計画を責めたところ、時政は返す言葉もなかったということです。

やがて北条時政と義時・政子の親子の関係は険悪化し、のちの北条時政失脚へと繋がっていったのでした。

 

畠山重忠の墓所

埼玉県深谷市畠山にある畠山重忠公史跡公園には彼の墓があります。

この公園は、畠山氏の平城だった畠山館はたけやまやかた跡に作られたものです。

畠山重忠公墓と書かれた石碑の傍らに堂が建てられ、中に主従の6基の五輪塔があります。

同公園には、「畠山重忠公産湯うぶゆの井戸」も残されています。

ほかには現地には一の谷の合戦では鵯越の逆落としで愛馬を背負って急峻な崖を下りた『源平盛衰記』にある逸話をもとにした銅像もあります。

公園では毎年4月に「重忠まつり」が開催されているそうです。

<畠山重忠公墓:畠山重忠公史跡公園 埼玉県深谷市畠山488>

 

きょうのまとめ

畠山重忠とは?

① 源頼朝に尽くし、鎌倉幕府の創業に多大な貢献をした智勇兼備の板東武者

② 執権・北条時政の謀略によって息子の重保と共に謀殺された悲劇の武将

③ 自らの死が北条時政の失脚を導くことになった人物

でした。

畠山重忠の勇ましくも清々しい生きざまを知れば知るほど、彼の最期の無念さとが悲しさが今でも人々の心を捉えてやみません

 

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku