2009年12月、中国河南省の省文物局(文化財の保護、管理を行う部署)によって、
それまではっきりしていなかった、曹操(字 孟徳)のお墓の場所が明らかになりました。
場所は河南省安陽県安陽市にある、安豊郷西高穴村。
ここにある西高穴2号墓、別名曹操高陵が曹操の正式なお墓として断定されたのです。
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曹操のお墓だと断定されたのはごく最近の話!?
曹操は三国時代の名将として、三国志を題材にした物語にも何度も登場するほど有名な人物です。
それほど中国の歴史において重要な人物だったのに、正式なお墓の場所が明らかになったのが、2000年以降だということには正直驚かされます。
現に曹操の祖父や父のお墓は、「曹操宗族墓」と名付けられ、テーマパークとして観光名所になっているほど…。
曹操は元々の生まれは高貴な家系ではありませんし、魏の国の創始者としての地位も、自分の力で手に入れたものでした。
そう考えれば、祖父や父が大切に祀られていて、曹操自身のお墓ははっきりしていなかったというのも不思議な話。
しかしこの「お墓の場所がはっきりしていない」というのも、彼の地位やその人物像が関わってのものだといわれているのです。
相次ぐ盗掘で空になっていると思われていた
曹操が生きた時代、中国で作られた権力者のお墓というのは、副葬品として高価なものを一緒に埋葬するのが一般的でした。
その副葬品を狙って、盗掘…いわゆる墓荒らしに入られることも多く、権力者のお墓が空の状態になってしまっていることも多々あるのです。
曹操の生きた時代といえば戦乱の時代…お墓を掘り返すような荒くれ者がはびこっていても、なんら不思議はありません。
曹操のお墓も例によって、
「すでに盗掘に入られていて、空っぽになってしまっているのでは…」と長い間考えられていたということです。
これなら、祖父や父のお墓がはっきりしていて、権力者だった曹操のお墓が見つかっていないことにも合点がいきますね。
しかしこの話で驚かされるのは、盗掘は決してその時代だけの話ではないということ。
なんとお墓の場所が断定される2年前、2007年にも盗掘に入られているのです。
それをきっかけに、曹操高陵の調査が強化され、結果として曹操のお墓だと断定されたわけですが…いつの時代になっても悪いことをする人はいるものですね。
「72の偽の墓の伝説」が信じられていた
曹操を主人公にしたエピソードに
「自分のお墓が盗掘されるのを避けるために、72個のダミーを用意した」
というものがあります。
これは飽くまでも物語を面白くするための作り話です。
しかし曹操は知略に富んだ武将だったため、自分の墓を作るにしてもそれぐらいの策を考えていてもおかしくないとされました。
つまり、72個のダミーを作るまではいかなくとも、自分のお墓をわかりにくくするための工夫はしているはずだと、多くの人が考えたのです。
盗掘に入れば、生きては出られないほどの罠が仕掛けられているなどという噂も独り歩きしていました。
実際はどうなのかというと、曹操は遺言でも「自分のお墓は簡素なもので済ますように」と告げていますし、盗掘にも何度も入られています。
曹操自身は隠すつもりはなくても、後世の人たちが作り上げた彼に対するイメージが、結果として彼のお墓の存在を隠していた…といったところでしょうか。
お墓を巡るエピソード
三国志を題材にした物語では、多くの場合曹操は悪役として描かれます。
しかしお墓を巡るエピソードを聞いていると、彼が必ずしも悪者ということはなさそうです。
悪者にされることの多い曹操だけど、実際は違う?
お墓の作りを簡素にするよう遺言を残したのも、お墓を作っている隙を他国につかれないようにするため。
金銀を副葬品に入れないようにと指示したのも、死んでしまった自分と一緒に埋めるよりも、国を豊かにすることに役立ててほしかったからだと感じます。
自分の死に際して、後に残される国のことをここまで考えられる人が、どうして悪人といえるでしょう。
墓の様子からも慕われていたことが伝わる…
魏の国が建国されたのは曹操が亡くなった後でしたが、息子の曹丕(そうひ)は魏の国の初代皇帝を曹操としました。
ちなみにお墓の中から「魏武王」と書かれた石板が見つかったことが、曹操のお墓だと断定された決定打になったのだとか。
そして簡素で良いと遺言を残していたものの、彼のお墓は736平方m(畳でいうと444畳)にも渡る広大な規模で建てられています。
一緒に埋められた副葬品は259点。
戦乱の時代にありながらも、相当な労力をかけて作られたことでしょう。
この曹操高陵には、共に正妻だった劉(りゅう)夫人と卞(べん)夫人の遺骨も、一緒に埋葬されていたといいます。
「愛妻と共に安らかに眠ってほしい」
そう思いながら、後に残された人たちは、曹操と夫人を同じお墓に埋葬したのではないでしょうか。
きょうのまとめ
今回は2009年に明らかになった、曹操のお墓について触れてきました。
お墓一つをとっても、後世に伝わった曹操のイメージや、当時周りの人たちからどう思われていたのかが垣間見えて、実に興味深いですね。
記事の内容を簡単にまとめると…
① 曹操のお墓は盗掘で空になっていると思われていた
② 物語のイメージが独り歩きして、お墓の場所が隠されていると思われていた
③ 後に残された人たちから慕われていたことが、お墓の様子からもわかる
といったところでしょうか。
曹操は約1800年も前の武将ですから、現代を生きる人たちは、その人物像も想像に頼るほかありません。
2000年代になっても、その想像の一部を担う証拠が発見されるのです。
こういった話には「まだまだ知られていない事実が、これからも明らかになっていくのだろうな」と、歴史の面白さを感じさせられますね!
曹操孟徳の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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