曹操孟徳とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

曹操孟徳

 

中国の三国時代、魏の国の礎を築いた名将、

曹操孟徳(そうそうもうとく)。

呉の孫権(そんけん)、蜀の劉備(りゅうび)と並び、三国時代を語るには外せない人物です。

三国志演義など、後に書かれた物語では悪役として描かれている曹操ですが、実際は少し違います。

曹操は一体どんな人なのか、記事を通してその人物像に迫っていきましょう。

曹操孟徳はどんな人?

プロフィール
曹操孟徳

出典:Wikipedia

  • 出身地:豫洲沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)
  • 生年月日:155年
  • 死亡年月日:220年3月15日(享年64歳)
  • 後漢末期、圧倒的な勢力を誇った武将。皇帝に仕える丞相として政治面でも国を導き、魏の礎を築いた。

 

曹操孟徳 年表

年表

西暦(年齢)

155年(1歳)宦官を務める父、曹嵩(そうすう)の息子として生まれる。

175年(20歳)官位を与えられ、洛陽北部尉、頓丘県令、議郎を務める。

184年(29歳)黄巾の乱が勃発。討伐に向かい黄巾軍に大勝。

188年(33歳)黄巾の乱での活躍が認められ、皇帝直属の軍「西園軍」を率いる西園八校尉(さいえんはつこうい)の一人に任命される。

189年(34歳)宦官粛清計画によって混乱を極めていた洛陽を董卓(とうたく)が牛耳る。暴虐の限りを尽くす董卓を嫌った曹操は故郷へ逃げ帰ることに。

190年(35歳)袁紹(えんしょう)を中心にして、反董卓連合軍を結成。董卓を恐れて動こうとしない連合軍にしびれを切らし、曹操が攻撃の口火を切る。

192年(37歳)兗州(えんしゅう)を治めていた劉岱(りゅうたい)が、黄巾軍の襲撃によって死亡。後を継いで曹操が兗州を任され、黄巾軍を討伐。降伏した黄巾軍を自軍に迎えることでさらに勢力を上げる。

193年(38歳)袁術(えんじゅつ)が兗州に攻めてくる。戦には勝ったものの、父の曹嵩を含む一族を袁術に味方した陶謙(とうけん)に殺される。同年復讐として陶謙が治めていた徐州を攻撃。大虐殺を行う。

194年(39歳)親しく付き合っていた張邈(ちょうばく)が裏切り、曹操が留守にしていた兗州に陣宮(ちんきゅう)と呂布(りょふ)を迎え入れる。曹操は兗州に戻るが、軍は大打撃を受けてしまう。

195年(40歳)兗州を侵攻していた呂布の軍を下し、兗州全域を奪還することに成功する。

196年(41歳)長安から逃げてきた献帝(後漢の皇帝)を、自らの本拠地にしていた許昌に迎え入れる。このとき献帝によって大将軍に任命される。

198年(43歳)張繍(ちょうしゅう)を撃破。呂布を攻め、徐州を制圧する。

200年(45歳)官渡の戦いでライバルの袁紹(えんしょう)を打ち破る。

207年(52歳)白狼山の戦いで袁紹の後継者である袁尚(えんしょう)、袁煕(えんき)に味方した烏桓族(うかんぞく)を討伐。河北を統一する。

208年(53歳)献帝によって丞相に任命される。同年赤壁の戦いにて、劉備軍に大敗し、荊州(けいしゅう)の大部分を奪われる。

211年(56歳)潼関(どうかん)の戦いにて馬超(ばちょう)、韓遂(かんすい)らによる関中軍閥連合軍を破る。

216年(61歳)魏王に任命され、献帝が治めていた帝国内に魏を建国する。

219年(63歳)定軍山(ていぐんざん)の戦い、樊城(はんじょう)の戦いで劉備とその部下、関羽との死闘を繰り広げる。

220年(64歳)病に伏して死亡。後に献帝から皇帝の座を譲り受けた息子、曹丕(そうひ)によって「太祖武帝」の称号を追号される。

 

曹操は正義感の強い武将だった?

物語での悪役のイメージに反して、実際の曹操は少し極端なぐらい正義感が強い武将でした。

しかしだからこそ、たくさんの部下から慕われ、三国時代でも圧倒的な勢力を誇っていたのではないでしょうか。

また、政治的手腕が優れていたのも、国民を納得させる公正さを彼が持っていたからだと考えられます。

違反者には身分を問わず公正な罰を与えた

175年、曹操は洛陽北部尉に任命され、洛陽北部の治安を守る役目を与えられます。

当時の朝廷では、皇帝の身の周りのお世話をする宦官が権力を握っていました。

皇帝のお気に入りの宦官であれば、法に反したことをしても大目に見てもらえるなど、明らかに宦官に有利に政治が行われていたのです。

しかし曹操が洛陽北部尉に就任すると、この宦官に有利な体制が一変します。

曹操は法に身分は関係ないとでもいうかのように、皇帝のお気に入りの宦官であろうと、法を破った者には公平に罪を与えたのです。

途端に好き勝手できなくなってしまった宦官たちは、曹操を洛陽北部尉の地位から追い出そうとするも、至極真っ当な勤めをしている彼を非難する理由が見つかりませんでした。

そこで宦官たちは曹操の働きぶりを逆手に取り、頓丘県令(とんきゅうけんれい)という、今でいう県知事の地位に彼を推薦することで、曹操を洛陽から離れさせたのです。

このように法を犯す者には公平に罪を与えた彼ですが、それは自分も例外ではありません。

曹操は行軍の際、部下たちに畑を踏み荒らさないよう命じていたのですが、あるとき自分の馬が暴れて畑を踏み荒らしてしまうことがありました。

このとき彼は、自らの髪の毛を切り落として、「これで許してくれ」と部下に頭を下げたのです。

部下に曹操を非難する声は一つもなかったというのに、一本筋が通ったこの姿勢には感服させられます。

洛陽にて暴虐の限りを尽くす董卓へ侵攻の口火を切る

189年、何進(かしん)の宦官粛清計画によって、宦官が権力を握っていた朝廷が崩されます。

この混乱に乗じて董卓が上洛、皇帝に取り入り、権力を得るとそれを利用して暴虐の限りを尽くしました。

具体的には富豪たちから金品を奪う、農民たちを虐殺する、女官たちを凌辱するなど。

権力を手に入れればこれだけ悪いことを考える人もいるのです…曹操がトップに立った際に国民から支持を集めたことも、これを聞けば納得ですね。

上洛して好き勝手している董卓を、当然のごとく周りも放っておきませんでした。

翌年の190年には袁紹を盟主にした反董卓連合軍が結成されます。

正義感の強い曹操のこと、当然彼もこの連合軍に参加しようとやってきました。

しかし反董卓を掲げているにも関わらず、なんと集まった武将たちは誰一人と動こうとしないのです。

武将たちは自分たちも権力が欲しいが故に反董卓を掲げたものの、董卓の軍の強大さに怖れをなして様子見するだけに留まっていました。

これに呆れた曹操は自らが口火を切り、後に続いた仲間と共に董卓へ攻撃を仕掛けます。

連合軍といっておきながら、参加したのは曹操とそれに続いた少数の武将のみ。

当然のことながら苦戦を強いられるのですが、これをきっかけに、最終的には董卓を洛陽から追い出すことに成功しています。

袁紹ら名立たる武将が二の足を踏んでいる中でも、躊躇なく真っ先に行動を起こした曹操。

まさに一時代を作る人の行動力ですね。

 

陶謙への復讐劇

193年のこと、袁術が曹操の治めていた兗州に攻め込んできます。

袁術は公孫瓚(こうそんさん)に援軍を求め、派遣された劉備や陶謙の軍もこの戦に参加しました。

戦自体は袁紹の協力もあって、曹操が勝利するのですが、このときに父の曹嵩を含む自身の一族を陶謙に殺されてしまいます。

家族を殺されたとあって、曹操の怒りは爆発

この後から翌年に渡って、曹操の血眼になっての復讐劇が繰り広げられます。

曹操は50万の兵力を率いて、陶謙の治めていた徐州を侵攻。

ただ陶謙の軍と戦を交えるだけでなく、行く先々で数十万人の民衆を虐殺しました。

なんでも、曹操の軍が通った後には死体の山が出来て、泗水(しすい)という川がせき止められてしまったなんて話も残っています。

人一倍行動力のある曹操…恨みを買ってしまえば大惨事にもなるというわけですね。

普段は正義感の強い武将なのですが、こういった逸話のイメージもあって悪役にされることが多いのでしょうか。

 

きょうのまとめ

曹操は人一倍強い正義感、そして行動力を持っていました。

そして少し極端なその気性のせいもあってか、一度頭に血が上ると歯止めが効かない部分もあります…。

記事の内容を簡単にまとめると…

① 曹操は身分に関係なく、公平な政治を行った

② 誰もが二の足を踏む状況でも、率先して行動に移す気概があった

③ 家族のこととなると虐殺もいとわない

といったところでしょうか。

良くも悪くも尖った印象を受ける曹操ですが、時代を動かす人というのは得てしてそういうものです。

彼が普通とは大きく違ったから、魏という国もできたし、今でも武勇伝が多く語り継がれているのでしょう。

 

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