曹操孟徳の名言からその生き様を辿る!謙虚な姿勢が強さの秘訣?

曹操孟徳

 

中国が三国時代に入る前の王朝、後漢の丞相(大臣)として三国時代の大国、魏の礎を築いた

曹操孟徳(そうそうもうとく)。

曹操は生まれこそ恵まれた家柄ではありませんでしたが、自身の才能を武器に数々の戦を制し、その地位を手に入れていった人物です。

そして曹操は戦が強いだけではなく、政治家として民衆を治める力にも、また長けていました。

武力と知性を兼ね備えた文武両道。

かと思えば、いわゆるやんちゃ坊主であり、品性には欠ける部分があるのも人間臭く、憧れる人が多い所以でしょう。

そんな曹操は数多くの名言を残しています。

今回はその名言の節々から、彼の生き様を辿ってみることにしましょう!

 

失敗の責任は主君に

曹操孟徳

出典:Wikipedia

「失敗の責任は主君に、成功の功績は家臣に」

主君は組織がどのような方向で動いていくかの指揮を執る権力を持っています。

しかし戦は主君一人で行うのではなく、従ってくれる家臣がいてこそ功績を立てられるもの。

曹操はこの言葉の通り、戦を有利に進められることは、部下たちが協力してくれるからだとし、決して自分の才能に溺れることはなかったのです。

部下のアドバイスを聞き入れ官渡の戦いを制する

西暦200年、曹操が自身と中国の勢力を二分していた袁紹(えんしょう)との決着を着けた官渡の戦いが行われました。

この官渡の戦いでは、曹操が部下のアドバイスに耳を傾けたが故、勝利を掴むことができたのです。

兵士の数で有利に立っていた袁紹は曹操をじわじわと追い詰め、曹操は砦に立てこもっての持久戦を強いられることになります。

持久戦となれば、問題となってくるのは兵士のための食糧です。

その点でいえば、立てこもっている曹操側が不利なことは目に見えており、部下の中に不穏な空気が流れていることも否めませんでした。

これを懸念した曹操は、信頼していた部下の荀彧(じゅんいく)に

「一旦撤退して、本拠地で袁紹を迎え撃つことにしないか?」

と相談を持ち掛けます。

しかしそれを聞いた荀彧は「袁紹の軍は持久戦に耐えかねて今に仲間割れを起こします。このまま耐えるべきです」と返したのです。

これを聞いた曹操は荀彧の言葉を信用し、立てこもりを続けることにしました。

このことが功を奏し、袁紹から寝返った兵に食糧庫の場所を聞き出し、そこを襲うことで曹操は戦を勝利に導くことができたのです。

袁紹の後継者を倒し北方制圧に成功するが、優秀な部下の郭嘉(かくか)を失う

官渡の戦いで袁紹を破った曹操はその後に袁紹の後継者である袁尚(えんしょう)と袁煕(えんき)を討伐すべく、中国の最も北に位置する幽州へ攻め込みます。

このとき袁尚、袁煕の味方についた烏桓族(うがんぞく)との戦が白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)です。

白狼山の戦いで曹操を苦しめたのは、敵の武力というよりも幽州の厳しい気候でした。

足元も悪く、極寒の中何日も行軍を続けるのは無茶だとして、幽州への行軍を反対する部下もいたのです。

しかし曹操は信頼を置いていた部下である郭嘉の

「烏桓族は今討っておくべきです」

という言葉を信じて行軍を決行しました。

途中、食糧を持っての行軍は困難だとし、

「軍を騎兵だけに絞ってさっさと戦を終わらせてしまいましょう」

という郭嘉の提案も曹操は受け入れます。

結果として敵の虚をつくことに成功し、戦は曹操の勝利に終わるのですが、行軍は過酷を極め、同行していた郭嘉も病に伏してしまいました。

このとき曹操は部下の前で自分の判断に無茶があったことを認め、後に反省の意を伝えたといいます。

幽州に攻め入ることを提案したのも、騎兵だけに絞って行軍を行おうといいだしたのも郭嘉でしたが、曹操はそれを郭嘉のせいにはしなかったのです。

結局このとき郭嘉は亡くなってしまいますが、後の赤壁の戦いに敗れた際にも曹操は

「郭嘉が生きていたら戦況は変わったかもしれない」

といっています。

話の節々から、部下の力に対する信頼が伝わってきますね。

 

金を手にして好い気になるのは

「金を手にして好い気になるのは、愚か者だけ」

生涯後漢の丞相(じょうしょう)であり続けた

213年のこと、曹操はその功績もあって、当時後漢の皇帝だった献帝(けんてい)の大臣の地位である丞相に昇り詰めます。

実は曹操の仕えた献帝は、あまり力のある皇帝ではありませんでした。

そのため、政治を動かしていたのはほとんどが曹操だったのです。

曹操は献帝に取って代わり、自分が新しい皇帝になることも十分に可能な状況に置かれていました。

乱世と呼ばれたこの時代、力を持っている者が国の中心となることは、当然の流れのようにも思えます。

しかし曹操は丞相になって以来、それ以上の地位を求めることはせず、最後まで自分の仕えた献帝の補佐役であり続けたのです。

そのとき曹操がどんな気持ちで丞相を務めたのかは定かではありません。

しかしきっと彼は、自分の地位のためではなく、国をいかに良くしていくかで、身の振り方を考えていたのではないでしょうか。

まさに曹操の地位に踊らされない姿勢が、後の魏という大国の礎となるのです。

 

きょうのまとめ

曹操が残した名言とその行動を辿ってみると、まさに言行が一致しており、筋の通った人物だということがわかります。

彼が最強の武将と呼ばれていたのは、その筋の通った様子から部下の信頼が厚かったことが関係しているのでしょう。

曹操の人物像を簡単にまとめると…

① 功績を残せるのは部下の力あってこそだと、部下への厚い信頼を持っていた

② 自分の失敗を認め、部下の前でも反省の意を示すことができた

③ 権力に驕らず、生涯国のために働いた

といったところでしょうか。

曹操は力を持っていても、常に謙虚な姿勢を忘れませんでした。

力が物をいう乱世にその姿勢を貫けることがいかに特別であるかは、彼が歴史に大きく名を残していることが物語っていますね。

自分の力に驕らないからこそ、自分を高めていくことができる…この教訓は私たちの私生活にも大いに活かすことができそうです。

 

曹操孟徳の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。
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