織田信雄の後世への貢献。子孫と彼が遺したもの

織田信長

 

織田信長の次男として知られる

織田信雄おだのぶかつ

偉大なる戦国大名だった織田信長の息子のひとりとして、

信雄はどのような子孫を残し、家系を繋げていったのでしょうか。

 

織田信雄家系図

当記事に登場する人物を中心に、簡単に系図にしています。

織田信雄家系図

 

織田信雄の子孫

織田信雄おだのぶかつ

総見寺蔵
出典:Wikipedia

まずは織田信長の息子として誕生した信雄のポジションから始め、家族、子孫について見て参りましょう。

織田信雄の年上の弟

織田信長

織田信雄は、信長の次男です。

ただ、そのポジションは曰くつきのものなのです。

織田信雄には年上の弟がいた、と言われています。

妙ですよね。

その年上の弟とは、三男とされる信孝のことです。

数多くいた信長の息子たちのうち、

・長男:信忠

・次男:信雄

・三男:信孝のぶたか

の順となっています。

織田一門における席次

・信忠

・信雄

信包のぶかね(信長の弟)

・信孝

です。

また、1581年の信長のお馬揃えと呼ばれる軍事パレードを催した際、それぞれが率いた騎馬衆の数

・信忠:80

・信雄:30

・信孝:10

であり、信雄はここでも次男として扱われているのです。

信雄の母は、生駒家宗いこまいえむねの娘・吉乃きつのです。

一方、信孝の母は北伊勢の豪族である坂氏の娘とされています。

実は、信孝のほうが信雄よりも20日先に誕生していましたが、母親の身分が低かったために吉乃に遠慮して報告が遅れ、三男とされたと言う伝承があるのです。

いずれにせよ信雄と信孝はほぼ同い年というわけです。

彼らは信長と嫡男の信忠亡き後の後継者として争い、ついには信雄が秀吉と共に信孝に切腹をさせています。

織田信雄の家族

では、信雄の家族構成を見てみましょう。

父:織田信長

母:生駒吉乃

養父:北畠具房きたばたけともふさ

兄弟:信忠、信孝など10数名

信雄は政略的な目的で北畠具房の養子となって具房の妹をめとり、北畠家の家督を相続したのちに北畠一族を謀殺し、北畠家の権力基盤を自分のものとしています。

唯一大名として存続した信雄の系統

織田信雄は、武将としての資質について疑われがちな人物です。

しかし、大名家の使命が家を存続させることだとすれば、その点では信雄の系統は成功しました。

なぜなら信長の子で大名家として存続し続けた系統は、唯一信雄の子孫だけなのですから。

信雄の四男・信良五男・高長の2系列は、江戸時代が終了するまで大名家として生き残りました。

【信雄の四男・信良の子孫】

出羽天童藩小幡おばた藩からの移封ののち、出羽高畠から拠点移動した)を廃藩置県となるまで存続しています。

そして彼の娘の子・稲葉知通いなばともみちから始まり、公家の勧修寺経逸かじゅうじつねはや、勧修寺婧子ただこを経て仁孝天皇へと血筋が続き、孝明天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇、明仁上皇、今上天皇と繋がってるのです。

【信雄の五男・高長の子孫】

大和宇陀松山藩主となり、その子の長頼の第に丹波国柏原かいばら藩へと移封した後、家系は現代にまで存続しています。

現在は織田家の第18代当主・織田信孝氏が織田孝一のペンネームにてフリージャーナリストとしてご活躍です。

ただし、18代まで続く間に織田家内、そして他家との養子縁組を挟んで家系を存続していることから、織田信雄のDNAを継承しているわけではありません。

血筋的には信孝氏は藤原南家工藤氏流内田氏のご子孫となります。

 

信雄と芸術や産業との関わり合い

織田信雄は、戦国武将としての行動に失敗もありましたが、彼は子孫と共に芸術や産業面でも後世に残る貢献を行っています。

小幡藩領内における貢献

【国指定名勝「楽山園」】

群馬県内唯一の大名庭園を作ったのが信雄です。

名前の由来は、孔子が書いた『論語』にある「知者楽水、仁者楽山、知者動、仁者静、知者楽、仁者寿」から。

もともとは小幡藩邸の庭として造営された池泉回遊式の借景庭園。

「戦国武将庭園」から「大名庭園」へと移行する過渡期の庭園ととして歴史的・文化的に貴重な庭園とされています。

【富岡製糸場に繋がる養蚕業】

信雄が小幡藩で養蚕業に力を入れた結果、江戸時代を通じてこの付近が日本でも有数の養蚕地帯となりました。

これが、明治時代になって伊藤博文による富岡製糸場の造営へと繋がりました。

世界遺産となった富岡製糸場の歴史的背景は、織田信雄にも通じていたのです。

能の名手

信雄は能の名手でした。

1593年、豊臣秀吉が主宰して後陽成天皇の前で開いた天覧能「禁中御能」がありました。

そこで信雄自身が能を演じ、その才能を称えられています。

諸芸に優れた才能を持っていた公卿・近衛信尹このえのぶただ

「常真御能比類無し、扇あつかひ殊勝ゝ」

と称えました。

『徳川実紀』にも聚楽第での能について

「殊に常真は龍田の舞に妙を得て見るもの感に堪たり」

と記されています。

能役者も信雄の発言を貴重な指針と捉えていたほど彼は能楽に影響力のある人物だったようです。

 

きょうのまとめ

今回は、織田信長の次男・織田信雄の家系と子孫、さらに彼が貢献した産業や芸術についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 織田信雄の子孫の系統は廃藩置県となるまで大名家として存続し、現代までその家系が続いている

② 信雄の五男・高長系の家系は養子縁組が挟まれているため、第18代当主織田信孝氏は信雄の血を引いてはいないが、四男・信良の女系子孫の血筋は今上天皇に続いている

③ 信雄は自領の養蚕産業に力を入れ、現在国指定名勝となる名園「楽山園」を残した

 

織田信長の家系を継ぐ大名家として江戸時代を生き残った織田信雄の子孫たち。

20人以上もいたと言われる信長の子供たちの中、それを唯一成し遂げたのが子が信雄だったのです。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku